健康長寿ネット

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第88回 我が故郷

公開日:2025年1月10日 08時20分
更新日:2025年1月10日 08時20分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師


5月に伊那谷に独りで住んでいた義母が死んだ。
40年前に母が死に20年前に義父が亡くなり一人で古い家を守ってきた義母が死んで我が家は空き家になった。

伊那谷は中央アルプスと南アルプスの間にあり、天竜川に沿った、谷というよりは平野である。
日本海に出るには中央アルプスと北アルプスを越えていかねばならず、太平洋からは南アルプスによって隔絶されている。
私は天竜を流れる川の音とアルプスから吹く風の世界で育った。

私の人生の大半の悩みは田舎の長男の悩みであった。
若い頃から最近まで夏の終わりになると、私の心は沼の底に沈んでしまったような経験を繰り返してきた。
私を襲う鬱のきっかけは決まって家の存続にあった。
お盆に帰省して名古屋へ戻るときに時に寂しそうに手を振っていた母親の姿がいつまでも心に残っていた。
「田舎の長男でありながら田舎を捨てて帰ってこない、そんな親不孝なことはない」と、幼いころから言い聞かされて育った私が田舎に帰って住むことはなかった。
「故郷に帰らない」後ろめたさは、抜いても、抜いても生えてくる雑草のように私の心から消えることはなかった。
拭い難い罪の意識に襲われ、その思いはお盆に帰郷して名古屋へ戻っても、鈴虫の鳴き始める秋まで続いた。
この頃では多くの家で長男不在となり、かっての家父長制を継続することが困難となっており、長男の義務感は薄らいでいる。
田舎特有の仲間外れの感覚を味わうことはなくなってきた。

故郷を後にする時に見送る寂しい母親がいるわけではない。
それにも関わらず「ふるさと」を思うとどこかに哀歓が漂い無念さが湧き上がる。
この切なさを伴う複雑な感情は生涯を通じて私の意識から消えることはなさそうである。
「ふるさと」という安らぎを伴った場所は私の中に何か重要な情緒を湧きたたせるのである。
ふるさとの場所に戻ることはできてもその時代には帰れない。
天竜川の魚、駒ケ岳の入道雲、小川のトンボ、夏の夕立の思い出。そうした情景と、情景に溶け込んだ様々な思い。
この記憶の中にあるかっての「私自身」、それこそが「ふるさと」である。
そして私の中にはもう一人の私がいて、思い出したように「帰っておいで」とささやくのである。

故郷を後にする著者と、寂しそうに手を振って見送る母親の様子を表わす図

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など

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