第55回 あなたは認知症ではない!!
公開日:2022年4月 1日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時50分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
73歳のSさんは優秀な技術者であった。65歳で会社を退職した後も財団の顧問として毎週東京の会議に出席していた。2歳下の妻と二人の生活を続けている。
気が向けば囲碁の集まりに出かけたし、私の出演した生涯教育講座に聴講に来た時もあった。
そんな活動的な生活が2年前から変わった。新型コロナの蔓延によって外出する機会がなくなってしまったからである。
子供が家を出てから二人だけの生活が続いていたが今回ほど二人が密接に暮らしたことはなかった。
妻は夫と四六時中一緒に暮らしてみると彼女が知っていた今までの夫とは別人のようにみえた。
朝から晩まで妻の顔色を窺っている。
こそこそと妻の前から逃げだそうと考えているくせに外へ出て行くことはない。
物忘れがひどくなった。ことに人の名前を思い出せない。総理大臣の名前も忘れていることが多い。
今日が何月何日だったかも知らない時がある。
そんな夫をみていて妻は「この人は認知症に違いない」と、思うようになった。
そして私の外来へ連れてきた。
以下は妻の陳述から私が想像した彼の日頃の生活である。
朝早くから目覚めて、家の中をごそごそと動き回る。
「これは認知症の症状の一つではないか?」と妻は言ったが、早朝覚醒は睡眠と覚醒のリズムがずれることによって生じる老化現象で誰にでも生じうる現象である。認知症によるものではない。
早朝に目が覚めて妻が作る朝食を何もせずに待っている。
朝食が過ぎると次の楽しみは昼食である。コロナの前は昼食の弁当をコンビニへ買いに行くことがたまにはあったが、この頃ではそれもしない。インスタントラーメンにお湯を注ぐことすらしない。
親鳥の餌を待っているひなのようである。
昼食が終わると夕食までうつらうつらとテレビをみて過す。
食べた後の後片付けをやったことはない。
炊飯器でお米を炊く事もできないし、掃除などやったことはない。洗濯は素人が新幹線の運転をしないと同じ程度の隔絶感である。
金縛りにあったように家事に手を出さないのである。
朝から晩まで小言を言っている妻とまともな会話をしなくなった。
たまに夫が発言しようとすると何倍にもなって言い返されるので、面倒になってしまったのだった。
妻が些細な事を執拗に問い詰めると突然大声を出して怒鳴り返す事が月に一度程度にあった。
妻はあきれてしまったが「認知症ならしょうがないか」と思い、それ以上は追求しないことにしていた。
妻は嫌がる夫を連れて私の外来に来たのである。
しかし認知症テストの一つであるMMSEをすると28点で、認知症ではなかった。
以下は私の感想である。
家事以外にすることがない老人夫婦にとって家事をやらない夫は肩身が狭い。
中には妻から認知症というレッテルを貼られたまま生活している人も出てくる。
そういう人にとっての解決策は簡単だ。夫が家事をやればいい。
掃除、洗濯、料理をすればいい。
世界中で女性が男性より長生きなのは女性が家事をするからだと、私は思っている。
日本の老人男性諸君、家事をしよう!!
そうすれば怯えて老後を過すことはない。
家事をしない人間は長生きができないのである。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など