第12回 取り損なった予約
公開日:2018年8月22日 16時47分
更新日:2023年8月21日 13時03分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
7月26日の木曜日の16時30分に予約をしてあった。はずだ。
10分前に床屋へ着くと先客がいた。いつもなら「いらっしゃい」という店主が何も言わずに、客の頭を刈りながらいぶかしげに私を見た。
私は待ち合いの椅子に腰掛けた。読みたくはないが時間つぶしに棚から少年ジャンプを取り出して、眺めた。
店主は私の動作を目で追っていた。
ハサミの手を止めて言った。「井口さん、今日だったっけ?」
今日はあなたの予約ではありません、と言っている口調であった。いつも井口先生というのに「イグチサン」というのもへんだった。
私は抑えた口調で「そうじゃないの」と語尾を下げて答えた。
店主は「明日になってるよ」と詰問調であった。私が日付を間違えていると言いたいのだった。
私は毎月1回、30年間、その床屋へ通っている。
どちらかと言えば二人は親密な関係である。しかしその言葉をきっかけに敵対関係になった。
私は「今日だよ!」と語尾を強めた。
店主は客から離れて右手にハサミを、左手に櫛をもったまま、壁につるしてあるカレンダーに歩みよった。
カレンダーは上半分が写真で下の半分に曜日と日が書いてある。客の名前を書く特別のスペースはなかった。
店主は私に傍に来るようにハサミで手招きした。
問題の箇所を櫛で示しながら勝ち誇ったように言った。「そらね、ここに井口って書いてあるでしょう」確かに私の名前は7月27日の金曜日の隅っこに書かれていた。
それでも私は納得しなかった。金曜日は家へ早く帰る日と決めている。
私の不機嫌な顔を見て相手も不機嫌になった。
刈りかけの頭を放置された客が面白そうに眺めていた。
私は「毎日忙しいから木曜日以外に予約をするはずがない」と主張した。
しかし目の前に証拠を突きつけられて諦めざるをえなかった。
「明日にする?」といわれて、明日にしてもよかったが「忙しくて木曜日以外はだめだって言っただろう」と強弁した手前、明日にするわけにはいかなかった。
「来週にするよ」と譲歩した。
それじゃ「来週にしましょう」と言って私の見ている前で7月のカレンダーをまくり上げて8月のカレンダーに「井口先生」と大きな字で書き込んだ。彼は勝ち誇った顔をしていた。
しかしそれは水曜日の箇所であった。「そこは水曜日だろ、1週間後は木曜日だろ!!」というと言うと、彼は慌てて棒線を引いた。
「そうやっていつも間違えるんだろ!」と私はたたみかけた。
人は失敗を指摘されるとうろたえるものだ。店主は櫛で自分の頭をかきながら「この頃間違えてばっかりいるんだよな」と、ようやく全ての間違いを認めたようだった。
「すみませんでした」と謝った。
そのとき二人は重大な間違いを犯していることに気づいていなかった。
8月のカレンダーは7月の終わりから8月の始の1週目が最上段にある。
その日から1週間後は8月2日である。しかしカレンダーの配列をみると、1週間後は8月9日に見える。
彼は8月の8日の水曜日と9日の木曜日でやりとりをしていたのだった。
彼は私の指示で8月9日に「井口先生」と大きく書き込んだ。
1週間の間、あの床屋、私が惚けたとでも思ったのではないか、と思い出して不愉快であった。
他の床屋にしようかと思ったが、以前にもアタマにきて他の床屋へ行って再びここへ戻った経緯がある。
次週には店主はさぞかし恐縮しているだろうと思った。
8月2日。
再び先客がいた。
私が着くなり「先生、来週だよ!」と言った。店主は私の想像に反して自信満々であった。
カレンダ-を持ってきて日付の欄をたくしあげて見せた。そこには8月9日の木曜日に「井口先生」と書かれていた。そこへ書かせたのは私だ。私は反論のしようがなかった。
店主は私の伸びた髪の毛を眺めて、「明日にする?」と言った。
「忙しくて木曜日以外はだめだって言っただろう!」と先週と同じことを言った。
そして「来週にするよ」と床屋をあとにしながら、髪を切ってもらう機会が永遠にこないのではないかと心配になってきた。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数