第27回 失踪する社会
公開日:2019年12月 6日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時57分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
東京行きの新幹線では左側の席に座ることにしている。窓から富士山が見えるからだ。
新幹線ができたのは1966年で私が信州を出て名古屋へきた年である。
初めて乗った新幹線からの景色はそれまでの鉄道の車窓の景色を一変させた。
遠い山並みがゆっくり移動して近くの景色は猛スピードで後方へ去っていった。
私が飯田線で伊那北高校へ通っていた頃は動き始めた電車にホームから飛び乗ることができた。
遅れそうになって走っていくと電車は待っていてくれた。
電車から見えるリンゴ畑には赤信号のような真っ赤なリンゴがなっていた。
天竜川の流れはおだやかでのぞき込めば魚が泳いでいた。
私は自然の中にいつも食べる物を探していた。
なっている物を見ると、もいで食べたくなったり、動いている物を見ると捕まえたくなのはいつも腹が減っていた幼少期を過ごしたためであった。
天竜川の岸辺にはタンポポが咲いて中央アルプスの山頂には雪があった。
秋になると河原にはススキがそよいだ。
私が生まれ育ったのは町外れの農村であった。
ほこりっぽいところで子供たちが群れていた。
母は「お蚕様」を飼って農協に卸して現金を持って伊那町の洋服屋へいって子供たちに白いパンツや丸首シャツを買ってくれていた。
子供たちにとって伊那町は都会であった。
病院があり、おもちゃ屋もあり、洋服屋もあった。
それに町には高校があり、本屋があり、酒屋があり映画館があった。町は文化の香りがする場所であった。
優秀な長男であれば進学校の高校へいくようになったのはその頃からであった。
それまでは農家の長男は農業高校へ進み農家の跡を継ぐのが掟であった。
明治以来続いてきた「家の存続」は、たとえそれがいくばくもない貧農の家系であろうと「長男が跡を継ぐ」ことは金科玉条の定めであった。
農家の長男たちは誰しも農業を「アトトリ」として継ぐ運命にあった。
本屋は本屋の、酒屋は酒屋の「アトトリ」になった。
しかし時代は変わり始めていた。
高校の同級生で優秀な者は都会の大学へ出ていくようになった。
「いつかは帰る」という固い約束をして田舎を出たのであった。
そして社会に踏み出してみると「いつかは帰る」ことは困難になった。
私たちは田舎へ帰還することはなかった。
母は「いつかは帰る」息子を待ちながら死んでしまった。
新幹線ができた頃から日本の社会が変わり始めていた。
その変化の速さは鈍行が新幹線に変わったほどであった。
田舎に人が住まなくなり、家父長制度が崩壊を始めたのもその頃からだった。
時代は猛スピードで後方へ去っていった。
飯田線は今でも同じように走っているのだろうか。
春の駅には今でも桜が咲くのだろうか。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していないードクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など著書多数