第56回 タンポポ
公開日:2022年5月 6日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時50分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
テレビでウクライナの戦争の場面を映していた。少年が田舎の幹線道路と思われる道路を泣きながら歩いていた。
私の小学生の頃を思い出した。
昭和20年代の中頃で、第二次世界大戦が終わって数年は経っていた頃であった。
戦争の記憶は天竜川沿いの田舎の住民に根強く残っていた。
夜間に飛行機の音がすると天井からつるされていた裸電球を消した。
どんな飛行機でもB29と呼ばれた恐ろしい戦闘機に思えたのだ。
信州の山奥に爆撃の標的などなかったが、天竜川下流の軍需工場があった浜松へ向かう戦闘機が戦時中には飛んでいたのだった。
住民に植え付けられた恐怖は戦争が終わっても消えることはなかった。
私の通った伊那北小学校は東に南アルプスが西に中央アルプスが見えるところにあった。
小学校の傍らには天竜川の支流が流れていた。
隣に田んぼがあって冬にはスケート場になった。
その頃の田舎には保育園がなかったので子供たちの集団教育は小学校1年生から始まった。
学校に馴染めない子供が授業中に家に帰ってしまうことは珍しいことではなかった。
6月半ばの頃だったような気がする。私は担任の先生に呼び出されて集会場へ行くように言われた。
集会場は学校から遠く離れた所にあって、町中から集められた子供たちにお菓子が出されて紙芝居を見せていた。
私の小学校から出席する者は2人だけであった。
毎年授業の途中で呼び出されて集会場へ行った。
私はその行事に連れていかれる理由を知らなかった。
先生も私の親もそれが何の儀式であったのか私に知らせることはなかった。
私の周囲に何か謎めいたものがあることは子供心に気づいていた。そして私はひどく神経質な子供になっていた。
その行事が町の戦災孤児たちを慰めるための慰問の会であったことを知ったのは、私が大人になってからであった。
私の父は私が生まれると直ぐに戦争で死んでいた。
私はそのことを知らされず父の弟を父として育てられていたのだった。
周囲の善意の計らいは幼少期の私を混乱させ、成長期に影を落とし、大人になるまで影響を与え続けた。
今も、ウクライナでは戦争で親を亡くした子供が生まれている。
戦災孤児に同情が集まるのは終戦後のしばらくの間だけで、月日が経つと同情は差別に変わっていくような気がする。
私が思い出すのは、小学校の傍らの小川に咲いていたタンポポである。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など