健康長寿ネット

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第50回 心の所在地―グーグルの地図―

公開日:2021年11月 5日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時54分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


グーグルで世界地図を開く。
最初に世界を俯瞰する地図が出てきて、絞っていくと日本がでてくる。更に焦点を合わせると三重県、桑名市と次第に世界が狭くなり週に1回勤務している病院の所在地が出現する。
私が現在居る所が世界のどこにあるのかよく理解できる。

その日は金曜日でいつものように午前中の外来が終わった。今まで気にかかることがない週末を迎えた日は少なかったが、久しぶりに平穏な金曜日の午後になる筈であった。
外来を後にしようとしていると、受付終了間際に来院した患者があった。
看護師たちは後始末に取りかかっていた。診察室を出た私に「患者さんがいらっしゃっています」と看護師が申し訳なさそうに言った。
私は一瞬とまどった。
私の表情に不快感がでたに違いない。
看護師が「済みません」と言った。
診察室に戻り椅子に腰をおろした。
診察室に現れた患者は車椅子に乗っていた。年齢は80歳代に見えた。車椅子を押していたのは50歳ぐらいの細面の優しい顔をした女性であった。「母親の右足のふくらはぎが腫れているので診て欲しい」と小さな声で言った。
母親の右足を診るとフレグモーネ(蜂巣織炎)であった。糖尿病があるので私の外来を受診したのである。
しかし、フレグモーネで受診すべきは外科である。
「どこに行っていいのか分からなかったのでここに来たのです」と娘は消え入りそうな声で言った。
既に他科の医者たちは持ち場を離れていたので、その患者の診察には外科の医者を探し出して依頼しなければならなかった。
私は後ろの看護師を振り返った。
見守っていた二人の看護師も困惑した表情になって見つめあった。
娘はその動きを不安そうに見守っていた。
我々が次の行動を起こす前に一瞬の沈黙が生まれた。

その時、娘が突然怒りだした。
「もういいです!!受診をしません、他の病院へ行きます!!」と言った。
優しそうに見えた娘は顔面をひきつらせて、怒りの表情をため込んで精一杯の憎しみを込めて言った。
母親がおびえたような顔をして娘の表情を覗った。娘が車椅子を反転させようとすると母親の片足が反っくり返って車椅子が動かなくなった。
娘はいらだち母親に向かって「いつもそうなんだから!!」と怒りの矛先を母親にむけた。
車椅子を押して出口まで行き、私に向けて精一杯の怒りを示すようにして振り向いた。
私たちがあっけにとられているのを尻目に親子は外来を後にした。

私は病院を出て帰宅したが、道中で娘の怒りの表情が脳から消えなかった。
帰宅してもその怒りの姿が心に重くのしかかった。
次の日も私の気分は沈んだ。何かにつけてそのことが思い出されるのだ。
何故あの娘はあれほどに怒りをあらわにしたのだろうか。一瞬の接触であれほどの怒りに火をつけた原因は何だったのだろう。
私が診察を断ったと思ったのだろうか?看護師との間に受診前にトラブルがあったのだろうか?受付の時点で診察終了間際であることを知らされて注意を受けたのだろうか?
私は自分の置かれた立場が理解できなかった。
私の心の現在地が不明であった。
彼女の置かれた立場と私の関係との全貌が分かれば私の不安感は収まる筈であった。
私の置かれた心の所在地をグーグルの地図の様に確かめることができれば、私の不安は少なくなるだろうにと思った。

図:老いをみるまなざし_第50回心の所在地グーグルの地図_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など

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