第65回 ETCパニック
公開日:2023年2月 3日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時46分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
新車を買った。
週に一度近郊の町の病院の外来診察に通っているが、その帰路のことであった。
金曜日、のどかな午後だった。伊勢湾岸道路から港に停泊する船がみえて、鈴鹿山脈の上空は晴れていた。
高速道路を降りるインターチェンジの料金所のETCゲートが閉鎖されていた。
直前になるまでゲートの閉鎖に気が付かず、私は慌てて一般用のゲートに車を入れた。
「ETCカードを出してください」と係員に言われた。
突然カードを出せと言われて困った。
カードが収まっている車内の場所を知らなかったのである。
運転席の右側の下のレバーを引っ張ってみたがそこにはカードは無かった。
その上を開けてみたがそこにもなかった。
一番上の段にカードを発見して係員に渡すと、「後ろのトランクが開いていますよ」と言った。
私が最初に触った下のレバーが後ろのトランク用であったのだ。
「悪いけど閉めてくれない」というと「わかりました」と言って人の良さそうな係員がボックスから出てきた。
後ろに回ってトランクを閉めてくれたが、その前に渡したETCカードを私に戻すのを忘れてしまっていた。
催促すると慌てて返してくれた。
そのカードを元の位置に戻そうと隙間に差し込むと刺さったままで戻ってこなくなってしまった。
差し込み口の横に付いている緑のランプも消えてしまっていた。私は不安になった。このままでは次からETCカードが使えない。
焦っているうちにゲートが開いた。
問題を残したままゲートを出ると赤いランプが点滅していることに気がついた。
ボンネットが開いていたのだ。
ETCカードを探して触ったスイッチにボンネットオープナースイッチがあったのだ。ボンネットが開いたまま運転すると危険である。前が見えなくなる。
この辺りから私の意識は異次元の世界に入ったようだ。
運よく近くにコンビニがあって駐車場に車を入れた。
車から降りてボンネットを閉めてから車を買った販売店へ「ETCカードが抜けなくなったので、直ぐにいく!」と電話をした。
販売店へ直行する途中で、眼前のディスプレイ画面が暗くなってしまったことに気が付いた。
何かわからぬが車全体に異常事態が発生したのではないかと思った。
販売店に着くと丸顔の若い女性が対応してくれた。彼女は落ち着いていた。
「ディスプレイの地図画面が暗くなるのは通常の現象で、車が明るいところへ出ると自然にそうなるのです」と懇切丁寧に説明されたが、私には懇切丁寧過ぎて何のことか理解できなかった。
彼女の言葉を反芻(はんすう)して「通常の状態では周囲が明るくなれば画面が暗くなるのだ」という事を理解した。いつもそうであり、前からそうであり、今日突然そうなったのではないとわかるまで時間がかかった。
そうかそういえばそうだったと納得した。
ETCカードが取り出せなくなったのは、所定の箇所の上方の隙間へ強引に押し込んだのが原因であったと、別の店員が説明してくれた。
車には何の故障も生じてはいなかったのであった。
どこか一か所に不安を感じると「体全体が病気になってしまったような気分になる」患者の心境が理解できた。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など