第43回 最悪のシナリオ
公開日:2021年4月 2日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時01分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
大学からの帰宅途中に西に向かう上り坂があり、上り詰めた所に信号機がある。
コロナ禍の2月、その日は車で混んでいた。濃尾平野に沈みかけた太陽が真正面に見えた。坂の途中で停車するには少しの技術がいる。
信号が青になると渋滞していた車の前方が揺らめくように前進を始めた。私はアクセルを踏んで少し前進した。
太陽光が直接網膜を襲い前方の視野が真っ赤な光の波に覆われてしまった。
その時に前の車が突然停車した。
わずかな衝撃を感じると衝突を知らせるフロントウインドウのサインが真っ赤になった。
微妙な技術の衰えは私の老化を反映していたのかも知れない。
衝突した車の左側の窓から覗くと黒の革ジャンを着てマスクをした40代とおぼしき女性が運転手であった。窓越しに彼女と目があうと私は「済みませんでした」と声に出して言った。
そして、そのまま家へ帰った。
帰宅してから心配になった。
事故を起こしておきながら逃げたことに気がついたのだ。
人は弱気になると最悪のシナリオを思い浮かべるものだ。
追突された車の女性は私の車のナンバーを覚えていたに違いない。
不安に追い打ちをかけるようにしてパトカーの音が聞こえた。我が家に向かってくるようだ。
私は犯罪者として逮捕されるのだろうか?
明日の朝刊には「また老人の事故」と大々的に出るに違いない。
以上までは仮定のお話である。
―――以下は実際の話。
追突は事実であった。
前方の車は停車して私を待っていた。私は車を降りてドアをたたいた。
女性も車から出てきた。
「済みませんでした」と言えば済むであろうと思っていた私の思いに反して彼女は「警察を呼びましょう」と言って私の返事も待たずに携帯電話から警察を呼んだ。
私の住所を聞き、自分の住所と電話番号を書いた紙を手渡して、私に「保険会社へ電話をするように」と告げた。
彼女は何故か非常に手際がよかった。
警察官が来るまで20分程度時間があった。
「寒いので車の中で待っていてもいいですよ」と女性は老人の私に気遣いを見せた。
夕日が落ちて風が出てきた。
20分後に二人の若い警察官が来た。
私の車を見て「どこが当たったんです?」と聞いた。追突した証拠が見当たらないのだ。車の衝突回避機構が作動して寸前で止まったらしかった。
相手方の車は白の軽自動車であったが後部にうっすらと黒いシミが付着していたが私が手でこすると消えてしまった。
双方の車に損傷はなかった。
私は「何か罪を受けるんですか?」と若いお巡りさんに聞いた。
「対物で処理しておきますので二人で相談してください」と言って二人のポリスは引き上げて行った。
私は「済みませんでした」と言えば済むことだと理解して、何度も革ジャンの女性に謝った。
私は逃げずによかったとしみじみ思ったものだ。
向かいの太陽はすっかり消えて夕闇が迫っていた。
1週間後に保険会社から電話があった。「相手方から30万円の修理代と代車代が請求されています」ということだった。
私は請求された修理代と代車代を支払ったのだった。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など