第77回 ガリバー旅行記-不死の人-
公開日:2024年2月 9日 09時00分
更新日:2024年2月13日 14時12分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
巨人の国や小人の国で知られているガリバー旅行記は300年に亘ってのベストセラーであり、現在でも日本での翻訳本が繰り返し出版されている。
ジョナサン・スウィフト(1667-1745)がこの本を出したのは1726年であった。日本の江戸時代で、ヨーロッパでは産業革命はまだ先の話で蒸気機関も実用化されていない頃であった。1830年に十遍舎一九が日本では初めて翻訳に取り掛かったらしい。
ガリバー旅行記は4部からなっている。
3部の第10章にラグナダ人礼賛という章がある。
その中に不死の人の話が出てくる。
人類の肉体的衰退の痛ましさ、凄まじさを、見事にえがいている。
東方の国ラグナダ島には左の眉の上に不死の印を持って生まれてくる者たちがすんでいる。彼らの人生は、いずれ死ぬ運命にあるほかのものたちと同じように、80歳になれば肉体的にも精神的にも衰え始めるのだが生き物ならだれでも死によって収束するはずの衰えが、彼らの場合には時と共にひどくなる一方なのだ。
著者はその様相と行動を次のように描写している。
「この国で人間の寿命の最高とされる80歳ともなれば、老人につきもののあらゆる愚かさや脆さを曝露するばかりでなく、絶対に死ねないと言う前途を悲観し多くの弱点をさらけ出すようになる。
頑固で気難しくて貪欲で不機嫌で、愚痴っぽくておしゃべりになる。若いころ、中年のころに目にし、学んだこと以外は何も覚えておらず、その記憶さえも極めて不完全である。
彼らの中で一番惨めでないのは、耄碌(もうろく)して知力をいっさい失ってしまう者たちであるように思える。そうなってしまえば他人からそれなりに憐れまれ、助けてもらえるからである」
この恐るべき肉体的な描写によって不死がいかに悲惨かをスウィフトはガリバーにえんえんと語らせたのである。
スウィフトの描いた老人像は現代の認知症患者の姿と部分的には似通っているところがある。
スウィフトは59歳の時にガリバー旅行記を書いて78歳で死んでいる。
晩年には彼自身に認知症と思われる症状が出現したらしい。
後年になってアルゼンチンの文豪ボルヘス(1899-1986)は「スウィフトがこのような人間たちを空想したのはやがて自分もそうなるのではないかと恐れたか、あるいはその不吉な恐怖を払いのけようとしたためにちがいない」と述べている。
それにしても私が驚くのは300年も前に書かれた著作が現代でもベストセラーであり続けていることである.
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など