第84回 不本意な講演
公開日:2024年9月13日 08時30分
更新日:2024年9月20日 16時33分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
私には1年に4-5回の頻度で講演の依頼があるが、事前の打ち合わせにはメールを使っている。
年金機構が開催する集会の後に私の講演が予定されていた。
年金機構では連絡手段にインターネットメールを一切使わない。このご時世でメールを使わない組織が存在するのは驚きである。詳しいことはわからないが数年前にメール使用による不正が明るみに出てから外部との連絡にインターネットメールの使用が禁止になっているそうである。
メールを使うことに慣れてしまっている当方としては不便極まりない。
伝達手段に電話と手紙しか持ち合わせていない日本の大組織である。不祥事があってそうなったということであるが詳細は分からない。
講演会の3か月前頃から担当の人と打ち合わせをしてきた。
打ち合わせのための手段はもっぱら電話であった。
電話は記録が残らないので思わぬ手違いが生じる。
私の講演は6月16日の水曜日の14:00開始であった。
いつものようにスライドを映写するためのUSBを持って出かけた。
会場は200人ほど収容する公会堂であった。
1時間半以上前に着いて駐車場の車で時間を潰して会場へ着いたのは、講演開始の40分前であった。
私の講演ではスライドを使うので準備のため早めに主催者と会った。
そこで思わぬ手違いが判明した。
年金機構の担当者は私の講演にスライドを使用することを前提とした準備をしていなかったのである。
機構のこれまでの講演会ではスライドを使ってこなかったらしく、私にスライドの使用の有無についての問い合わせが事前になされることはなかったのである。
講演にスライドを使うのは医学系の講演会では常識になっているので、私は当然スライドを使って講演をするものと思っていたが、主催者はスライドは使わないことを前提に準備をしていた。
私の講演はスライドに従って進行するので、スライドがないと進行役がいなくなったようなもので、道に迷ってしまう。
それにしてもどこでこんな間違いが生じてしまったのだろう。
メールでやり取りをしていたらこういう類の行き違いは起こらなかったであろうと思われた。
私は途方に暮れたが、講演会を中止するわけにはいかなかった。
しかし幸いなことに会場には年金機構とは別に会場を専門に運営している人たちがいることに気が付いた。
私は会場の係りの人に直接交渉をした。
講演開始の10分ほど前のことであった。
さすがに彼らはスペシャリストであった。すぐに対応してくれた。
彼らの計らいで私はスライドを使った講演を無事こなすことができた。
私の話はスライドがなければ進行しないことを改めて思い知らされた。
講演の際中に「スライドをなぞっているだけの中身のない講演である」と誰かに耳元でささやかれているような気がして、不本意な講演であった。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など