第47回 気になる言葉-「そうしたこと」と「何だろう?」-
公開日:2021年8月 6日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時57分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
私は自分でそう思うことはないが、他人から見れば人生の終りを迎えているらしい。
ある人に訊かれた。
「私は60歳ですが、来年に定年を迎えようとしています。そろそろ成熟していいはずですが、他人のことが気になってしょうがない。他人にどう思われているのだろうかとか、他人に何気なくささやかれた嫌みな言葉が気になってしょうがないとか、あいつよりも自分の方が上だとか、そうした馬鹿げた煩悩が抜けません。先生にはそうしたつまらぬ悩みはありませんか?」
「年を取ればそうした悩みから解放されますか?」と聞かれたのだ。
何故かこの頃、「そうした」という言葉をよく使う人がいる。
そういう言葉を使えば言葉を吟味して説明する課程を「そうしたこと」として省略できる便利な言葉だからだろう。使い始めるとやめられなくなる。
そしてこの頃、若者の間に流行っているのは「何だろう?」である。話の途中に「何だろう?」と入れて、半拍遅れで意見をしゃべる。「何だろう?」も癖になるようで使い始めると止まらない。「何だろう?」と自問して言葉を深く吟味している振りをしている。
そこで最初の話の続きになるが、
私の人生を思い返してみると「つまらぬ悩みにとらわれていなかったこと」が全くなかったという時期は思い出せない。そうしたことは全くなかった。
何だろう?
私の脳には煩悩の路線が敷かれており常に悩みの車両が走っていた。若い頃から現在まで消えたことはなかった。悩みの全てはつまらぬ対人関係であった。
そうしたことは年を取っても変わらない。
強いて言えば、若い頃は複数の悩みが一緒に走っていたが、年を取るといくつもの悩みが同時に路線上に存在することは少なくなってきた。最近の私の悔恨の路線にあるのは、単線上にある単一車両である。
何だろう?
複数あっても路線に乗せられなくなってきたのかもしれない。
脳の容量が減って大量の悩みを引き受けられなくなったのか。それとも忘れてしまうからなのか。
何だろう?
恐らくその両方だろう。
しかし、年をとって確実に変わったことはある。
何だろう?
それは走っている他人の車両を眺める余裕が生まれてきたことである。
若い時は自分のことしか見えなかったが、年を取ると怨念の荷物を載せて走る向かいの車両を眺めることができるようになった。
あちらの車両にも同じような悩みを乗せて同じ煩悩を抱えて苦しむ人がいることがわかるのだ。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など