第81回 自動車免許証更新のための記憶力テスト
公開日:2024年6月14日 09時00分
更新日:2024年6月14日 09時00分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
5月である。太陽の光が我が家の庭の若葉に反射している。バラの花が咲き、スズメが地面をついばんでいる。
バラの花とスズメを見ると運転免許証試験を思い出した。私は1か月後に免許更新のための試験を受ける予定であった。
後期高齢者の自動車免許取得に際しては記憶力テストが課される。
イラストを見せられて、数分後に「思い出して名前を書きなさい」と指示される。その中にスズメとバラの絵があるのだ。
16枚で1組のイラストが4組用意されていて、そのうちの1組が出題される。
どの組が出題されるかは不明であるので、万全を期して準備をするためには64個のイラストを記憶しておく必要がある。
イラストは無秩序で相互に無関係である。
物忘れに怯えている大抵の高齢者にとって恐怖である。
しかし高齢者でも受験戦争にさらされてきた世代である。
幼少期から青年期にかけての思い出が蓄えられていて試験となると脳の深い底からエネルギーが出てくる。
高得点を取る必要はないのだが、少しでも高い点を取ろうと思って血が騒ぐ。
受験生は予習をしたくなるものである。そして目指すは満点である。
書店の店頭に予習のための本が並べて置いてある。
Yahoo!に出ている本の広告だけでも50種類を超える。
どうやら後期高齢者は競って受験のための予習に励んでいるようだ。
私も何かの手がかりが書いてあるかと思い3冊取り寄せた。しかしどの本も参考にはならなかった。
記憶は貯蔵と想起と位置づけで構成されているが、この試験の場合、脈絡のない単語を位置づけなしで想起しなければならない。
無理して位置づけを試みると更にわからなくなり、想起は絶望的になる。
エビングハウスの忘却の法則によれば、無意味な単語は20分後には42%忘れ、1時間後には56%、9時間後には60%忘れる、1日後には74%忘れるそうである。
75歳以上の後期高齢者の忘却率はさらに悪化していると思われので、1日後にはほとんど全てを忘れてしまうと思われる。
私の試験は1か月後である。あまり早くから予習をすると試験の前にはすっかり忘れてしまうことになりそうだ。
思案に暮れていると雨が降り出したようで、庭の空気が重くなった。
スズメの姿は見えなくなって、バラの花が風に揺れている。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など