第10回 チンパンジーになれ
公開日:2018年6月22日 17時11分
更新日:2023年8月21日 13時03分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
クリニックへ通ってくる患者の話によると、ウイークデーのゴルフ場は老人ばかりであるという。
昨日よりも今日、今日よりも明日の方が進歩がある、ということをゴルフで確かめながら生きてきた人たちが、集まるようだ。
柏井さんは83歳である。
会社を作り、社長を息子に譲って、今は会長である。
ゴルフだけが趣味であった。競争心は旺盛であり、自尊心も強いが、無口で自慢はしないタイプである。若い頃のティーショットは自分でも驚くほどに遠くまで飛んだ。ゴルフ場で正確なショットをして抜群のスコアを挙げれば問答無用で優越感を持てた。
空の彼方へ飛ぶ球を横目に見て、腰を屈めてティーを拾うときに感ずる達成感が彼の生きがいだった。
80歳を過ぎるころから状況が変わってきた。ショットが飛ばなくなった。腰痛を患って以来、歩くとふらふらするようになった。そしてスコアは次第に落ちていった。
歩く速度が遅くなり一緒に回るメンバーに迷惑をかけるようになった。
若かった頃、老人と一緒にプレイをすることがあった。口には出さなかったができれば一緒には回りたくないと思っていたものだ。今はその老人になった。
若い頃であれば練習すればスコアを回復することができたが、今では下がってゆく体力を維持することさえできなくなってしまった。
名門クラブのAランクの会員である。
月例会で、最下位が3度続いたことがあった。
「あいつまたどべだ」という陰口が耳に入った。それ以来彼はゴルフ場へ行かなくなった。
ゴルフへ行かなくなると会社へも顔を出さなくなった。
彼は糖尿病患者であり、私は彼の主治医である。
彼の糖尿病はゴルフをやらなくなってからみるみる悪化した。
高齢者の糖尿病に厳格な管理は必要ないが高齢者といえども重症になればインスリン注射をしなければならなくなる。
彼の糖尿病は内服薬ではコントロールが不可能になりインスリンを注射しなければならない瀬戸際に追い込まれた。
私は生活習慣の指導をした。
「先生が歩けって言うんでね、毎日30分ばかり散歩します。甘いものを食べるなと言われるのでナッツや柿の実ばかり食べているんですわ。それでも毎日バーさんに怒られてばっかり」
彼なりに頑張っているようであったが、妻と二人だけの生活はストレスも溜まり糖尿病はさらに悪化した。
私は彼にゴルフに復帰することを勧めた。
「ゴルフ場へ行きなさいよ」
「行っても迷惑かけるのが嫌なんですよ」
「ハンディを下げてAランクからCランクぐらいに落としてやればいいじゃない」
「それが我慢できんのですよ」
競争から脱落してしまうのは彼にとっては死ぬほどに苦痛のことのようだった。
「それじゃ練習だけでもしてくればいいじゃない」
「練習しても上達できんですよ」
「体を動かすだけでもいいじゃない」と言うと
「上達しようと思わないゴルフは、金にならないパチンコをやってるようなもので、続きませんよ」と答えた。
彼は過去の栄光から抜け出せないようだった。
私はチンパンジーのことを思い出した。
人以外の高等脊椎動物は、現在の心象は思い描くことはできるが、過去と未来についてはそうした感覚を一切持たないそうである。人間が悩むのは過去の出来事とそれによって生じる未来への不安である。
チンパンジーのような霊長類は、その場限りの場面に夢中になれるのだそうだ。
私は老人になったらチンパンジーのようになりたいものだと思っていた。
そこで柏井さんに「チンパンジーのように練習をしたら」と言ってみた。
彼は寂しそうに言った。
「私はサルにはなれんですよ」
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数