第1回 遠い地面
公開日:2017年9月26日 13時16分
更新日:2023年8月21日 13時07分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
私は大学のクリニックで外来診療をしている。
私の足は蒸れると湿疹ができる。だから外来診療の時にスリッパに履き替えている。靴下も脱いで裸足で患者を診ている。スリッパも脱いでいる時もある。
私の裸足に気が付くと患者は一瞬見て見ぬ振りをする。
スリッパは外来の戸棚の下方に置いてある。私は膝を骨折してその後に腰痛も発生したので、しゃがむことが苦痛になった。スリッパは毎回看護師に出してもらっている。
私の頭が地面から遠方に生存していることを恨むこの頃だ。
「先生は背が高い人なんですね。」と長年外来に通院している70代の女性患者が言った。
私がクリニックの通路を歩いていたのを偶然見かけたのだそうだ。
私の背丈は若い頃より2cm短くなって今は176cmである。私の年代にしては背が高い方である。
外来患者は座って診ているので、立った私の姿を見たのはその朝が初めてであったようだ。患者は私が「意外と背が高いのに、驚いた」そうだ。
「背が高くて格好良かった」とは言わなかった。
足の長いのは「すいすい歩く」から恰好が良いのであって、足を引きずって歩く老人では長いほどお気の毒だ。すらっと背が高いのもこの頃では栄養失調の虚弱老人ではないかと周りの人を不安にさせる。近頃ではそういう老人をフレイルというらしい。
私はコンビニでお金を払おうとしていた。小銭を使えないと認知症に危ぶまれるのでポケットから小銭を出して掌で数えていると、数個の1円玉が床に落ちた。放っておいてもいいと思ったのだがヒトメが気になった。
しゃがんで床に落ちている物を拾うには左手をどこかに添えて思い切り右手を延ばして目的の物質に到達するのだが、地面は遠い。宇宙のかなたから海底の貝殻を探すような気分になった。
腰を曲げて床に散らばった1円玉を挟もうとしたが銀貨は床を滑ってつまむことができなかった。より密接に接近しようと錆びついた電柱のような脊椎を曲げると、シャツの胸ポケットに入れていたガラケーが落ちてきた。それはナイアガラの滝から落下したほどの衝撃だった。半開きになったガラケーと1円玉の散乱した床を見つめて私は惨めになった。
地面に近いところに頭部がある人がうらやましかった。
背が高いことが老人のQOLを損なうとは知らなかった。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943 年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007 年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数