第8回 立ち去り疑惑 ー待ち受け老人詐欺ー
公開日:2018年4月23日 13時55分
更新日:2023年8月21日 13時04分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
桑名の病院で金曜日の午前の外来を終えるとその日の予定は終わった。1週間の仕事を終えた開放感があった。
春休み中の大学へ帰るか、それとも直接家に帰るか思案したが、とりあえず伊勢湾岸道路にあるインターチェンジに寄って昼飯を食べることにした。向かいの鈴鹿山脈の頂上には雪があった。
3月の連休の前日で、長島パーキングエリアの駐車場は混んでいた。駐車スペースを探していると、レストランの近くに1か所だけ空いていた。
右側の車が境界線上に止めてありスペースは狭かった。
私は両サイドの車に気を配りながらバックして止めた。車を降りるときに隣の軽乗用車に開いたドアが当たった。触ったという感触で、狭い空間では不可抗力に思えた。
慌てて相手の車を見たが傷はついていないようであった。
ドアと車の間を体をよじって出ながら考えた。車の持ち主に謝ろうか、そのまま何事もなかったように立ち去るか。
立ち去るには気が引ける。しかし「済みませんでした」と謝ると、この平凡な金曜日の午後に何かしらの不穏な事態が生じるかもしれない。
迷いながら相手の車を見ると、運転席に人の姿はなかった。私の心配は杞憂に終わったかに思えた。
車を離れてレストランに向かって歩きだした。
その時、隣の車の助手席の窓が開いた。
車の持ち主は運転席のシートを倒して寝ていたようだった。
男は顔を出して「おい!!」といきなり怒鳴った。
ひとは後ろめたさを漂わせた背中を背後からどつかれるとビックリするものだ。私は腰を浮かして肩をぴくつかせた。
男は「当たっただろう!!!」と畳みかけて言った。左手にはスマホを掲げて私に向けて動画を映していた。
灰色に青味を帯びた作業着を着た男で、30代の後半に見えた。
スマホを見ながら「どこの会社だ?!」と凄んだ。私は会社に勤めていないので黙っていると「上司の名前を言え」と言った。
誰が上司に当たるのか即座には思い当たらなかったので「済みませんでした」と首を前に倒して誤った。青空を見ながらチョコンと頭を下げた。
しかし男は「会社の電話番号を言え」と冷徹を装った表情をして命令口調であった。
お前の悪事を会社の上司に言いつけるぞと脅していたのだ。
私は何を犯罪の要件にするのだろう?と思った。
男が撮影しているのは損傷の現場ではなくて私の顔だ。
私に非があるとすれば、私がその場を立ち去ろうとしたことだ。そのことだけが私の後ろめたさだ。
相手は私の心を見透かしたように言った。
「お前、黙って逃げようとしただろう!」
この男は、私が立ち去ろうとしたことをどうして知っていたのだろう?と思った時に気が付いた。
男は一部始終を見ていたのだ。必ずドアが当たる距離に車を止めて身を潜めて隣に駐車する老人を待っていたのだ。
そして老人が黙って立ち去ろうとするのを見届けて声をかけたのだ。
卑怯者は代償を払うべきだというのが彼の主張のようだった。
私は面倒に巻き込まれるのは避けたかった。
財布から1万円を取りだして男の顔に向けて「これでいいかな?」と言うと、男は黙って金を受け取って窓を閉めた。
私は昼飯を食べる気持ちがしなくなってそのまま体をよじって車に乗って、家に帰った。
空には灰色の雲が漂っていた。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数