健康長寿ネット

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第90回 正月明けの床屋

公開日:2025年3月14日 08時20分
更新日:2025年3月14日 08時20分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師


何もかも面倒くさいと思う季節がある。
1月の終わりは正月を終えて一休みしたい時期だ。しかしいつもの日常は待っている。また走り出さなければならない。
カレンダーをみると「また床屋か」と思う。
何事も計画通りに進まないのに床屋へ行く間隔だけは正確であるのがいまいましい。
年を取って時間が経つのが早くなった。
髪の毛がのびるのも早くなったような気がする。私は何かに腹を立てたくなっていた。

床屋へ出かけた。
行きつけの床屋Sは、しゃれた店名である。
床屋の親父が命名したのであるが「何の意味なの?」と聞いても教えてくれない。
通い始めて40年になるが未だに不明である。おそらく彼もその意味は知らない。
「教えてあげない」のではなくて知らないのだ。
そのSで木曜日の15時に予約を入れてあった。

いつもは空いている床屋の駐車場に車が停まっていた。
床屋の渦巻きの看板の前に白のカローラが駐車していた。Sには駐車場は一つしかない。
今までは車で来ない客と、車で来る客が交互にきていたので一つの駐車場をめぐって争いがおこることはなかった。
私はお客が店の中にいることが分かると床屋の前の駐車場に車を停めて眠って待っていることにしていた。
床屋の椅子は木でできていて硬くて座り心地が悪いからである。
その日は駐車場に車があって、中を覗くと客がいて散髪をしているのが見えた。
仕方がないので近くの区役所の駐車場へ車を停めて15分ほどしてから床屋の前に行った。
しかし駐車場には先ほどからの車がそのまま停まっていた。
向かいにあるコンビニの駐車場に車を停めて床屋へ電話をかけた。
「あ、イグチさん」と普段は井口先生と呼ぶのだが調子が悪いとイグチさんになる。
「来週でもいいよ」と言った。それまで冷静であった私の頭が突然沸騰した。
来週でもいいよ、とはどういうことだ。「俺は今ここにきているではないか」と何か叫んだと思うが何を言ったか覚えていない。とにかく頭にきた。
前の客が車を駐車場から出したので車を停めて床屋へ入った。
私は床屋の台に座っても怒っていた。何故か理由は不明だが床屋も怒っていた。
「私は先生の来るのを見ていたんです。来たら誘導しようと思っていたのです」
彼も70歳を超えた。私は81歳である。老人の二人の論理は全く噛み合わなかった。
お互いに相手の主張が不明であった。
私は何故「来週でもいいよ」と彼が言ったのか知りたかった。私は「違う人の予約があるので、来週にしてくれ」と言われたと思って腹をたてたのだが、違う人の姿はなかった。
そのまま椅子に座ると、床屋が私の頭を刈り始めた。
結局、彼が「来週でもいいよ」と口走った理由は不明のままであったが、髭を剃られながら眠ってしまった。

親父と喧嘩すると私はこれまで積み上げてきた私の教養が全部消え去ってしまったような気がするのである。

筆者が床屋の前で怒っている様子を表した図

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など

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