第37回 懐かしき宴会
公開日:2020年10月 2日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時53分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
ある祝賀会に出席した。
前列中央に主賓が位置して偉い順に席を占めている。
自分の名前を探して席を見回している恰幅のいい初老の紳士が見えた。席に置かれた名札を確かめていた。
最前列に自分の名前を発見することができず、次第に序列を下げてきてようやく自分の名前を発見した。
そこは私の隣であった。
私の席は前から2列目の左端から2つ目にあった。
予想に反した低い位置づけに不満そうで、机の上に置かれていた座席表を改めて確かめた。そしてのけぞって座り直した。
私には初対面であったがどこかの大きな病院の院長であるらしかった。
私の隣が不満であったのだ。
「お前とおなじかよ?!」と口にはださなかったが態度がそう言っていた。
挨拶が始まった。主賓の後は政治家だった。
民衆の前で「コンニチワ!!」と大きな声をだすのが政治家である。
その政治家も大きな声で「皆さんコンニチワ」と言ったが会場の誰も「コンニチワ」と言わなかった。
出鼻をくじかれた政治家は背広のボタンを外したり留めたりしながら中身のない演説をした。
私は黙って座っていた不機嫌な隣人に挨拶を試みた。
話題がないときは天気の話をするのが平均的な日本人だ。「今日はいい天気ですね」と私が言うと「そうですね」と言った。それ以上会話が進まなくなったので苦肉の策で「明日もいい天気でしょうかね?」と水を向けても「さぁどうでしょうね」と乗り気のない返事をした。
私の隣に座ったのが不満だから無愛想であると私は思ったが、そうではなかった。
彼は挨拶を頼まれていたのだった。
順番が来るまで気がそぞろで私との世間話に気が回らないのだった。
挨拶の文章で彼の頭の中は堂々巡りの最中だったのだ。
彼に挨拶の時が来た。
壇上に上がると「突然のご指名でして何も考えていませんでしたのですが・・・」と言った。私は心の中で「嘘つけ!」と思った。
ネクタイをいじり、背広のボタンを外したり留めたりしながらありきたりの挨拶をした。
それから2、3人の招待者の挨拶があって乾杯となった。
乾杯の挨拶は長老がする。
ようやく飲めると思ってビールをついだコップを持って立っていると「長い挨拶は嫌われますので・・・」と言っておきながら長い挨拶をした。
最近コロナのためにこのような懐かしの宴会がことごとく中止になった。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など