第48回 便りがないのは良いしらせ
公開日:2022年11月11日 09時00分
更新日:2022年11月11日 09時00分
宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
私たちにとって眠りがいかに大切かは、言うまでもない。眠るからこそ心身が休まり、活動できる。嫌なことがあった時、気持ちが切り替えられるのも、眠りが思考を軽くリセットしてくれるからだ。
しかし、私たちが眠りの大事さを痛感するのは、たいてい、眠れない時ではないだろうか。忙しくて睡眠時間が短い時でも、寝つきも目覚めもまあまあ良ければ、たいていの人は、眠りについて意識せず暮らしている。
精神科領域で働く看護師という仕事柄、患者さんのみならず、友人や知人からも、メンタルヘルスについての相談をいろいろ受ける。その中で、必ず聞くのが、睡眠状態。もともと精神疾患を抱えている場合はなおのこと、不眠が異変のサインになるからだ。
ただ、眠りについて尋ねたのをきっかけに、眠りへのこだわりが強まると、それもまた好ましくない。なぜなら、眠りにこだわればこだわるほど、人間は眠れなくなる傾向がある。
この睡眠へのこだわりについては、忘れられない例がある。訪問看護でうかがっていたある高齢の女性は、うつ状態になると、眠りについての細かい訴えが延々続いた。
一人暮らしで、家事をする程度の生活。こちらから見ると、何時に寝て何時に起きても、特に問題はないように見えた。
以下、私との会話である。
「看護師さん、本当に眠れなくて大変なんです。夜8時に眠剤を飲んで、寝付くのに2時間くらいかかってしまって。10時くらいから眠って、4時には目が覚めちゃうの。夏なら明るいからいいけど、冬だから、外は真っ暗。本当に辛いんです」
「早く目が覚めた時の頓服がありますよね。それを使ってはどうでしょうか」
「でも、使ったら、今度は起きられないの。10時まで寝ちゃいました」
「時にはそのくらい眠ってもいいのではないですか?」
「でも、寝すぎると今度は夜眠れなくなるでしょう。それが怖いんです」
「確かに、夜10時から4時だと、6時間は眠っていらっしゃるのですよね。人によっては、そのくらいの睡眠の方もいらっしゃいますし。目が覚めても異常ではないかもしれません。追加の眠剤を使うのも抵抗があるというのであれば、体を横たえているだけでもいいのではないでしょうか。それでも疲れは取れると思います」
「でも、明るくなるまでが長くて辛いんです。なんで眠れないのでしょう」
眉間に皺を寄せ、こちらの提案は、全て「でも」と聞き入れない。うつ状態の間、訪問時はいつも同じような会話を繰り返していた。
本音を言えば、向き合って30分この話を聞くのは、かなり辛かった。相手から良い反応を引き出そうと思うと、裏切られた気持ちになってしまう。慣れてからは、むしろ多くを期待せず、聞くことそのものに意味があると割り切るようにした。
ところがある時気づくと、この眠りの話が出なくなっていた。語られるのは、主に昔話。表情も柔らかくなり、明らかにうつ状態は改善していた。
この例もまた、眠りが話題の中心になるのは、不眠の時だけ。眠りが良くなると、自然に話題に上らなくなる。
思えば、病状が良くなった時に、「良くなりました」と明るい声で言われることは意外に少ない。特にうつや不眠などの精神的な症状はそうだ。
電話やメールなどで友人や知人の場合も、具合が悪い時には、苦痛を訴えるが、良くなると、だんだん連絡が間遠になる。
こうしたフェイドアウトは、私にとっては、不義理でもなんでもない。それどころか、改善の兆候と喜び、むしろ、蒸し返さないよう気をつけている。
「便りがないのは良いしらせ」。昔の人は本当にうまいことを言ったものだ。長く医療の現場で働き、しみじみその意味をかみしめている。
著者
- 宮子 あずさ(みやこ あずさ)
- 看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。
著書
「まとめないACP 整わない現場,予測しきれない死(医学書院)、『看護師という生き方』(ちくまプリマ―新書)、『看護婦だからできること』(集英社文庫)など多数。ホームページ: