第12回 慣れた暮らし
公開日:2019年11月 8日 09時00分
更新日:2019年11月 8日 09時00分
宮子あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
電動自転車で訪問先を移動しながら、「ああ、この自由さを手放せるかな」とふと思ったりする。朝白衣を着て、夜帰るまで病院の中で働く。今の仕事につくまでは、22年間そのように働いてきた。しかし、もう1回その働き方に戻れるか、自信がなくなっている。
一方、訪問看護の仕事も楽ではない。人様の家に上がり込むのは、いろいろ気苦労もある。行った先の環境が快適とは限らない。ネズミやゴキブリ、ごみやカビ......。生理的に合わず、続かない人もいる。
また、判断に苦しむ場面にも遭遇する。訪問したら応答がなく、部屋で亡くなっている可能性が高い。そんな時にはまずどこに連絡するか。毎回悩みながら決断を重ねている。
しかし、10年続けてたいていのことには動じなくなった。変化を恐れる一方で、現状を受け入れられるようになったように感じている。訪問看護で関わる高齢者についても、こうした傾向は強く、環境を変えるのは大ごとになる。
最近80代の女性が暮らすアパートに取り壊しの話しが出て、次の契約更新ができなくなった。退去まで残された期間は2年。この間に、生活保護を受けてひとり暮らす住まいを探さなければならない。
彼女は長く統合失調症を患う。しかし、年老いた今、妄想など特有の症状は軽減した。内服さえしていれば、普通の高齢女性である。ただ、民間アパートは年々独居の高齢者に門戸を閉ざしている。福祉担当者は、公営住宅を申し込むよう、彼女に勧めている。
私はこれを聞いて、「都営住宅に入れたら、1DKで今より少し広くなりますよ。お風呂もあるし、トイレも洋式。今みたいに和式で苦労することもありません。古い所でも、きちんと修繕してあるから、ここよりは絶対きれいです。引っ越し代も福祉から出るし、いろいろ支援もありますから。引っ越しも心配ありませんよ」と、強く勧めた。
ところが、彼女は涙ぐみながら、「40年もいたから。離れるのは、本当につらいのよ」。「住めば都」と言うから、この気持ちはもちろんわかる。だが、現状の住環境はあまりにも問題が多く、支援者としては、転居を喜ぶ気持ちが強かった。
築50年を越える風呂なしアパート。銭湯はとうの昔になくなり、以来彼女は風呂に入っていない。風呂の代わりは、日々の乾布摩擦。洗髪は、美容院で。月に1回程度カットに行って洗ってもらうのだという。彼女は決して不潔には見えない。身仕舞いもちゃんとしている。乾布摩擦と1ヶ月に1回程度の洗髪で、ここまできれいに暮らせるのが驚きだった。
老いるほどに、慣れた暮らしを変えがたい。彼女と話して、そのことを改めて感じた。今のまま住み続ける解はない。まずは難関の都営住宅の申し込みをしてもらい、決まらなければ民間アパートを探すことになろう。
年を重ねた人にとって、転居は本当に一大事なのだ。残りの年月、彼女が健やかに今の住まいで暮らせるよう、支えていきたいと思う。
著者
- 宮子 あずさ(みやこ あずさ)
- 看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。
著書
『宮子式シンプル思考─主任看護師の役割・判断・行動1,600人の悩み解決の指針』(日総研)、『両親の送り方─死にゆく親とどうつきあうか』(さくら舎)など多数。ホームページ: