第22回 居宅死
公開日:2020年9月11日 09時00分
更新日:2020年9月11日 09時00分
宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
精神科訪問看護の仕事についた11年の間に、何人かの利用者さんが自宅で亡くなり、その後地域の支援者に発見されている。地域の支援者とは、ケアマネージャー、ヘルパー、自治体の担当者などで、私たち訪問看護師が発見する場合もあった。
こうした亡くなり方は、往々にして「孤独死」と呼ばれるのだが、かねてから私はこの呼び方に強い違和感を覚えてきた。はっきり言えば、その人自身の気持ちもわからぬままに、「孤独」などと決めつけるのは、失礼ではないか。ではどのように呼べばよいのかと対案を考えると、なかなか良い案が浮かばず、「いわゆる孤独死」などと、苦しい言い方を繰り返してきた。
それが、最近、実際に家で亡くなっている利用者さんを見つける体験をして、シンプルに「居宅死」でよいのではないかと考えるようになった。
そのような心境になった理由は2つある。ひとつは、亡くなってから時間が経っておらず、きれいなまま見つけられたこと。もうひとつは、たまたま鍵が開いていて発見が容易でその後の対応がスムーズだったことだ。
ドアを開けた時、私に見えたのは布団に横たわるその人だった。エアコンとテレビはつけっぱなしで、呼吸をしていないように見えた。しかし、最終的な確認は救急隊に委ねるのがよい。万が一救急処置が必要でも、救急隊を早く要請するしかない。そう考えて、すぐに119に通報した。
その後、駆けつけた救急隊によって「社会死」であると確認された。死後硬直があるなど、社会通念上死亡が疑われない場合、医師の死亡確認を待たずに、救急隊の判断で救命処置を行わなくてもよいのである。
この後は、救急隊から通報を受けた警察が後の対応を引き継いだ。私は答えられる範囲の質問に答え、本格的な現場検証の前に解放された。
今、私はこの利用者さんの死について「たまたま亡くなる場が家だった人を、たまたま自分が見つけたのだな。」――そんな風に考えている。ことさらに誰にも看取られなかったことを気の毒に思う気持ちはない。
なぜなら、国が推奨する「時々病院、ほぼ在宅」の方向性が明らかである以上、これからますます、家で亡くなる人は増えていくだろう。亡くなる瞬間1人きりである可能性は、たとえ同居者がいてもありうるのである。
どのような形であれ、病院で死ねば「病院死」、自宅で死ねば「居宅死」とシンプルに分けるだけでよいのではないだろうか。その上で、必要であれば、死後発見されたことを付け加えれば、状況は記録できるはずだ。
振り返ってみれば、自暴自棄になりがちで、人との関わりを求めないその利用者さんとは、良い関係が築けたとは言いがたい。また、突然の居宅死という終わり方も、無力感を覚えたというのが、正直な所である。
一方で、早くに異変を見つけられただけでも、1つの役割は果たせたように思う。訪問看護に対しては、拒否的な人も少なくない。多くの人が、自分の家に来ることに抵抗感を持つ。とは言え、今回、誰かが定期的にその家を訪れる意味を、改めて再確認した。無理なく可能な形で継続していけるよう、考えていきたい。
著者
- 宮子 あずさ(みやこ あずさ)
- 看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。
著書
『宮子式シンプル思考─主任看護師の役割・判断・行動1,600人の悩み解決の指針』(日総研)、『両親の送り方─死にゆく親とどうつきあうか』(さくら舎)など多数。ホームページ: