私の考える理想的な死
公開日:2016年7月25日 01時00分
更新日:2019年2月 1日 18時27分
QOLとQOD
生活の質、人生の質をQOL(quality of life)といいます。心身ともに健康でいきいきと毎日の生活を過ごしていける状態をQOLが高いなどと表現されます。誰もがこのように毎日を理想的に生きていくことを目指しています。一方、死に関しても、理想的な死があります。死を迎えるときのあり方をQOLに対してQOD(quality of death)と言ったりすることもあります。
医学の進歩と延命治療
人は誰しも人間としての尊厳を保って人生の終末を迎えたいと思うでしょう。自分の人生を振り返り、やり残したことを整理し、そして家族や友人に囲まれて、ひとりひとりに最後の別れをして死を迎えたいと思うでしょう。医学の進歩は人々の寿命を長くしました。しかし、死を迎えるときの人々の願いが叶えられないようなケースも出てきました。
例えば、延命治療のために身体中にチューブを入れられて、身動きも出来ず、時として呼吸補助のために気管挿管されて声も出せないこともあります。消毒液の匂い、そして目に映るのは緑も何もない蛍光灯の光に照らされた殺風景な風景。心電図や人工呼吸器の音だけが聞こえ、時々姿を見せる人たちは、マスクで顔を大きく覆って表情もわからない医師や看護師だけ。このような環境の中で、自分の意思と関係なく治療を続けられ死を迎えるようなケースも多々あります。
最近はがん患者などには末期ケアのための施設(ホスピス)なども造られて、自分の望んだ治療や介護が受けられるようになってきています。しかしまだまだこうした形での死を迎えられる人は少ないのです。
理想的な死
つい数十年前までは、例えば脳卒中で倒れると、自宅で寝かされて近くの医師に往診に来てもらう。家族や友人が集まり見守る中で、別れを告げながら死んでいく。このような死は、今考えると理想的な死に近いものであったでしょう。しかし、皮肉にも医学の発展が逆に人生で最も重要な瞬間である臨終の時を、非人間的なものにしているといえなくもありません。
「長命」ではなく「長寿」を
アルツハイマー病(リンク1参照)やパーキンソン病(リンク2参照)、骨粗鬆症(リンク3参照)などの老年病を考えて下さい。これらの疾患は直接の死因にはなりませんが、高齢者の知的な機能をゆっくりと、しかし確実に低下させ、あるいは運動機能の障害、骨折のため寝たきりにさせていきます。
知的機能や認知機能などは低下し、あるいは寝たきりのため褥創(床ずれ)ができ、尿便失禁となり、感染症を繰り返して死に至ることが多いのです。長期の介護が必要となります。多くの人々はこうした形での死を望まないでしょう。ポックリ信仰が日本の各地でみられます。庶民の多くは苦しまず、また家族や他の人々に迷惑をかけずに、そしてポックリと死を迎えたいと願っています。
医学の発展は循環器疾患の予防・治療を進めてきました。しかしこの結果、心臓病でポックリと死ねる人は少なくなりました。平均寿命は延びましたが、一方で老年病の患者数は飛躍的に増大しています。多くの人々は最も望まない形での死を迎えることになっているのです。
理想的な死を迎えるためには、老年病を予防し、単なる長生きである「長命」ではなく、元気で健康な生き生きとした長生きである「長寿」を目指す長寿医療、長寿科学の推進が、これからの日本には是非とも必要なのです。
国立長寿医療センター
下方 浩史