血縁・世代を超えた支え合いで 地域社会を豊かに(福岡県北九州市 高齢社会をよくする北九州女性の会)
公開日:2023年1月13日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時43分
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「老いて誇りを持って生きられる社会」と「女性の自立」を叶える
「女性の自立を促し、社会参画の場をつくり、女性の力で少子高齢社会をよりよく変えていきたい」。そんな思いから、1985年「高齢化社会をよくする北九州女性の会」(のちに
に変更。以下、女性の会)は発足した。設立当初から類まれなリーダーシップで会をまとめてきたのは、代表の冨安兆子(とみやすよしこ)さん、88歳(写真1)。2019年には健康・医療分野において素晴らしい活躍・社会貢献している80歳以上の人に贈られる「山上の光賞」を受賞している。1980年代中頃まで専業主婦世帯が多数派で、結婚後は女性は仕事を辞め、家庭の中で夫や家族を支えるのが一般的という風潮があった。そのような男性優位ともいえる社会の中で、「老いていく人々が誇りを持って生きられる社会」と「女性の自立が達成される社会」の実現に向けて女性の会は始動した。
以来、福祉に関する勉強会やシンポジウムの開催、高齢者の見守り・家事援助を中心とした高齢者支援サービス「やさしい手」、高齢者の低栄養改善と孤立防止のための「配食サービス」、女性の子育て離職・介護離職を防ぐための子育て支援サービス「グランマ」など、幅広く展開してきた。
北九州で女性の会が立ち上がる3年前には、東京に事務所を置く「高齢社会をよくする女性の会」(代表:樋口恵子氏)が発足している。東京の女性の会と北九州の女性の会は過去に合同でシンポジウムや大会を共催するなど、手を取り合いながら活動している。
血縁がなくとも支え合い信頼関係を築ける
冨安さんは静岡・伊豆の造り酒屋の末っ子として生まれた。母は地元で選挙の応援演説をするほどの活動的な女性。そんな母の影響もあって、冨安さんは人前で臆することなく話をするなど、自然にリーダーシップが取れる存在だった。
新婚生活を送ったのはまったく地縁のない鹿児島市。年子で男児を出産したが、頼れる実家は遠く、子育てに追われた。就職したての夫の給料では生活は厳しかった。「子どもに1個10円のキャラメルを買おうか買うまいかと市場の中を何度も往復しました」と冨安さんは回顧する。
早々とおむつが取れていた長男は、次男が生まれると退行現象でおむつに逆戻り。部屋はたちまちおむつの山となった。洗濯機がない当時、洗濯物はすべて手洗い。家政婦さんを頼みたくても家計ではやりくりできなかった。ならば自分で資金をなんとかしようと思い立ち、チラシ1枚から英語教室を始めた。次第に英語教室の評判が広がり、気がつくと教室をきっかけに鹿児島の地にしっかりと馴染んでいた。孤独だった子育ても地域の人々の温かい存在に支えられた。
その後、夫の転勤で北九州市に引っ越すことになった。「鹿児島を発つときには、駅のホームから人がこぼれ落ちそうなくらい多くの人が見送りに駆けつけてくれました。血縁がなくとも支え合える、信頼関係を築けることを教えてもらった気持ちでした」と当時を懐かしむ。
新天地の北九州市では、子どもの小・中学校のPTA活動に携わり、母親たちでつくる「北九州市母の会」の会長も務めた。そこでは学習大会の運営などあらゆることを女性たちの手で支障なく行ってきた。
その頃、北九州市では「電話による自殺予防の活動」が始まろうとしていた。発起人は患者が自死したことに心を痛めていた1人の精神科医で、NHK北九州局のラジオでの呼びかけで始まった。冨安さんは「何らかの事情で自殺願望を持つ人々が生き延びるための力になりたい」と、この自殺予防の活動に当初から参加していた。この活動もまた、当時の社会のありようを反映する形で、活動者の多数は女性であるのに意志決定の中心にいるのはほとんどが男性だった。冨安さんは、ここでも男性中心社会を目の当たりにしたという。
時あたかも、国際女性年(1975年)の翌年に始まった「国連女性の10年」の2年目の年。やがて来たる社会課題として意識され始めていた「高齢化問題」に取り組むことで当時の男性中心社会の考え方を変えようと、冨安さんは少しずつ準備を始めた。それは男女平等という遠大な理想を追求するためでもあった。
それから8年ほどの時を経た1985年、女性の力で社会を変えていくためには、女性たちが連帯し、学習を積むだけでなく実践の場を持たなければならないと、満を持して「女性の会」を立ち上げ、さまざまな活動を展開していった。
女性の"ケア力"や"家事力"を地域のために活かす
はじめに手がけたのは、学びを中心とした勉強会やシンポジウムの開催である。高齢社会の課題を取り上げるシンポジウム、高齢者の心理や介護などを学ぶ「高齢学講座」、国内外の女性問題を取り上げた講演会、若い世代も取り込みたいと始めた「ネットワーク事業」と呼ばれる組織間協働の活動など。当時、他に類をみない新しい内容で、毎回多くの参加者があった。
会発足の1980年代半ばは徐々に高齢化率が上がり、高齢社会への移行期。そこで、1986年に実践的活動の第一歩として始めたのが、高齢者支援サービス「やさしい手」である。軽度の介護、家事手伝い、話し相手や通院の付き添いなど、ヘルパー派遣事業だ。
実践的活動のもう1つ、子育て支援サービス「グランマ」は、10年間構想を温めて1994年から開始した。合言葉は「遠くのおばあちゃんより近くのグランマ」。子育て支援サービスは、当時は行政もまだ手を出しかねている分野だった。「北九州は全国から勤労者が集まるまちで、親許から離れて子どもを産み育てることに不安を覚える人が多かった」と冨安さんは話す。さらに女性が出産を機に仕事を辞めざるを得ない社会状況にも懸念を抱いていたという。
グランマとは「グランド・マザー」。つまり、おばあちゃんを指す。子育て経験者などのグランマ世代が、保育園の送迎、産前・産後や急病のときのお手伝いなど、働くママたちの子育ての負担を軽くする支援を行う。前もって信頼関係を築くために、母親だけでなく父親を含めた子育て世代との交流の場「グランマプラザ」をつくった。現在はグランマ同志との交流や子育てに関する勉強会の場として利用されている。
これらの活動は、女性が家庭で行ってきたケアや家事の力を地域の誰かのために活かすものである。サービスの担い手は有償ボランティア。活動はすべて「相互扶助活動」であり、サービスの受け手も担い手も会員となり、支え合いの精神で成り立っている。
「誰かのためになる」がモチベーションと生きがいに
もう1つ力を入れてきた活動に、1986年から始めた「配食サービス」がある。高齢者の低栄養改善と健康維持、さらに孤立防止や安否確認という重要な機能を担っている。
冨安さんがこの「配食サービス」を始めるきっかけの1つに、故郷に住む年上の従姉の悲しい晩年があった。経済的には恵まれていたものの、子どもを早くに亡くし、晩年は独居だった。風邪をこじらせて肺炎になり入院後1週間で亡くなった。その大きな要因は「栄養失調」。晩年は調理することもむずかしくなり、ヘルパー派遣は町の制度変更を機にやめていた。「金銭的に余裕があっても不幸は起こりうる。老後の生活を見守り支える、しっかりとした仕組みが必要。そして健康を保つ基本は、食事と栄養だ」と冨安さんは身に沁みて感じたという。
「配食サービス」では、ボランティア活動を希望する人たちの近辺にある市民センターを拠点とし、その調理室を活用して調理を行う。多いときには市内20拠点で7万食を超える弁当を夕食用に届けていた。配達の際は安否確認を行い、短い時間でも会話をするなど、ふれあいを大事にしている。
お弁当は1つ500円で、活動を始めた当時の駅弁の値段に合わせたという。驚くことに現在も500円で提供している。これはボランティアの皆さんの知恵と工夫なしでは実現できないだろう。「普通の人の普通の暮らしを支えるのが私たちの活動ですから」と冨安さんはにっこり笑う。
「配食サービス」の拠点、戸畑区一枝班の調理室に伺ってみると、高齢の女性6名が色彩豊かな弁当をテキパキとつくっていた。本日の献立は、「人参とじゃこのごはん、鶏つくね、煮しめ、青菜、酢の物、卵焼き、煮豆」。たんぱく質が豊富で野菜とのバランスもいい(写真2、3)。
「食事を喜んでくれる利用者の笑顔が何よりの生きがい。この活動は自分の健康にもいいし、特にお昼休憩のおしゃべりが楽しいです」と話すのは、80代半ばの調理ボランティアさん。
冨安さんいわく、「活動する方の健康づくりと居場所づくりも、この活動の狙いです。自分のためだけでなく人のために動くこと自体が介護予防になっています。誰かのためになっていることがモチベーションとなり、生きがいにつながると信じています」。
次世代が幸せを実感できる社会をつくるために
女性の会設立から38年が経つ今も、高齢者や女性、社会的弱者が抱える諸問題の解決に向け精力的に活動をしている(会員数:最大時約1,300名、2021年3月現在382名)。高齢社会の課題やジェンダー平等に関する講演会の開催(写真4、5)、健康をキーワードにしたスポーツワークショップの開催、北九州市立大学を拠点とした「コラボラキャンパスネットワーク」(多世代交流・地域づくりの協働事業)、DV被害者支援の「北九州シェルター」の運営など、広範な活動を展開している。
一方、介護保険制度の成立とともに、当然のことながら「やさしい手」「グランマ」「配食サービス」の活動は縮小方向に進んだ。20拠点あった「配食サービス」は、現在では前述の戸枝区一枝班のみ引き続き活動している。女性の会の配食は高い人気で定着したサービスだったが、活動班の継続に関してはメンバーの高齢化もあり、話し合いを中心に各班のリーダーに一任しているという。
「単一のNPOが必死にサービスを提供するよりも、行政や地域企業が法に基づいて実施できるように法や制度を調えることが本来だと考えてきました。国や行政がやるべきことをいつまでもNPOが背負っていると、かえって行政機能を損なうことになりかねません。これは北欧の福祉のあり方から学んだことです。こういう活動で地域を支えられるというモデルを示して、行政や地域企業に引き継いでいく。実際に市が子育て支援を始めるときに、『グランマ』の取り組みを参考にしてくれました。行政からも一目置かれる存在でないと。そうなることでNPOの活動が本来の力を発揮できますから。それが私の心意気です」と冨安さんの言葉はやわらかくも力強い。
「かつては世代間の女性の連帯が困難でした。以前の嫁姑の利益相反から来る関係が根底にあるかもしれません。もっと自由に考えて、世代を超えて女性が女性を助ける。そういう社会が私の夢です。1人ひとりの力はわずかでも、それを寄せ集めて次の世代へ活かしていく。自分の子や孫がよければいいなんて狭い考えではなく、血縁があろうとなかろうと、次の次の、そのまた次の世代も『生きていてよかった』と喜び合える社会をつくりたい。血縁や世代を超えた支え合いで地域を豊かにする。そういう栄養素を振りまきたい」と冨安さんは目を輝かせた。
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