民家でホームホスピスを地域ネットワークで実現(宮崎県宮崎市 ホームホスピス「かあさんの家」)
公開日:2020年4月30日 09時00分
更新日:2024年8月13日 15時05分
こちらの記事は下記より転載しました。
ごく普通の民家がホームホスピスの場
それは閑静な住宅街の一角にあった。ごく普通の戸建て民家、庭があって樹木が茂っている。駐車スペースを抜けた玄関には個人宅の表札もある。靴を脱いで上がるとリビングにお年寄りが数人、テレビを観ながらくつろいでいる。訪れた1月末の宮崎市は暖かな陽ざしがあるものの寒い。
ここは認定NPO法人ホームホスピス宮崎が運営する「かあさんの家・月見ヶ丘」(写真1)だ。パンフレットにはこうある。
「がんになっても、認知症であっても、障がいがあっても、一人暮らしであっても、住み慣れた地域で、最期まで安心して暮らせるまち」。
さらに「病におかされ自らの死期を知った時、様々な肉体的症状、苦痛に加えて、不安と恐怖、悲嘆と絶望など心の痛みは、健康な時の想像を超えて深いものに違いありません。そんな時、自分が生きてきた場所で、家族に囲まれ家族や友人あるいは自分との和解を遂げていく、この時間こそかけがえのないものです」
行き場がなくなった人の受け皿となった
なぜこうしたホームホスピスが生まれたのだろうか?それは緩和ケア病棟のホスピスはがんとエイズに限られているし、グループホームは認知症で要介護度や年齢に制限がある。もし認知症の方にがんが発症した場合、本人・家族の意向で積極的な治療をしないとした場合、病院からは退院になる。老人保健施設や特別養護老人ホームなどの介護施設はがんや重篤な病気があると受け入れはむずかしい。
一方、家で死にたいと願っても一人暮らしだったり、家族の介護力が弱い場合、自宅に帰ることができない。この結果、そうした人たちには行き場がなくなるのだ。
そこで家で看取れない人をどこで看るか、その受け皿をつくろうと、民家を借りて始めたのがこのホームホスピス「かあさんの家」だ。
ここの利用料金は、住まい2~4万円、共益費1.5万円、賄(まかな)い費4.5万円で、合計8~10万円で、このほかにスタッフが24時間見守る環境を維持するための生活支援費が6万円となっている。
こうした民家を借り受けるときに周辺の住民の理解は欠かせない。「救急車や霊柩車が来る」といって反対されることもあるという。しかし、住民として長く暮らしてきた人が年老いたため、自宅を「かあさんの家」に貸し出し、自分自身が自宅に住み続けながらケアを受ける場合がある。そうすると周辺の住民は抵抗なく自然に受け入れるという。その結果、看取った後も表札がそのままに残っているわけだ。
「環境と空間」の持つ力は生きる力を輝かせる
市原美穗さん(写真2)は「これまで116人の方を看取りました。かあさんの家にいらっしゃる方の8割はこの家で亡くなりました。平均すると1年くらいで亡くなりますが、中には11年もいる方もいます。平均で要介護度4.7と重度な方が多いのですが、民家という『環境』と居心地のいい『空間』はその方の生きる力を輝かせます」と、「環境と空間」の持つ力を強調する。
市原さんは、宮崎市内に3つのかあさんの家を運営するNPO法人ホームホスピス宮崎と全国組織の一般社団法人全国ホームホスピス協会の理事長でもある。
入居者は5人と少人数だ。5人という数は"疑似家族"を形成するのにちょうどよく、無理に家族のように暮らそうと努力しなくても、ほどよく仲良くなれる数だからだ。
「亡くなる前には家族に寄り添っていただき、旅立ちを見守ってもらいます。その時間と場所を提供するのもホームホスピスです。家族に悔いが残らず納得して見送れる、その時間が大切です。家族は亡くなって寂しいけれども幸せな気持ちになれます。こうした『看取りの文化』は50年前まで日本にはどこにもあった光景でした。看取りを病院に外注、葬式も外注してしまって、その結果、幸せになれたのでしょうか」と病院での死に疑問を呈する。
「家族の思いは病院のモニターには映りません。もう治らない状態で医療は介入しないほうがよい。そしてどんな病気でも亡くなる時は同じです。何もしなければ実に穏やかに、静かに亡くなります」と"平穏死"の重要性を言う。
その方の人生の物語を理解して接することが大事
3年前、105歳で亡くなった日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長)も、毎年かあさんの家を訪れて、「僕を広告塔に使いなさい」と言っていたという。
また、宮崎県の有名な研究者だった女性もこの「かあさんの家」の入居者になった。「そんな立派な方でもこうなってしまうのか」と周囲は驚いた。最初はかたくなな態度でケアを拒絶するような姿勢が目立ったが、その方のバックグランドを知ったうえでケアするようになると、徐々に穏やかになり、最期はここで97年の生涯を閉じたという。
「その方の人生の物語を理解して接することが大事です」と市原さんは言う。これは後述の「聞き書きボランティア」にも共通している。
全国に知れ渡り社団法人化して質の担保めざす
1998年に市原さんらが勉強会である任意団体のホームホスピス宮崎(HHM)を立ち上げた。その3か月後には宮崎市議会と宮崎市郡医師会に「緩和ケア病棟及び在宅ホスピス支援センター設置についての要望書」を提出した。これは医師会病院に緩和ケア病棟を設置して在宅医療との連携を促すものだった。そして、2000年に特定非営利活動法人(NPO)の認証を得て、活動を本格化する。
まず最初に手がけたのが「患者らいぶらり」(写真3)と「聞き書きボランティア」(写真4)だ。「患者らいぶらり」は入院患者に闘病記などの本を届けるボランティア、「聞き書きボランティア」はお年寄りの人生を語ったことを聞き書きして、小冊子にまとめてご本人に渡すボランティアだ。デイ・ケアでよく行われている認知症ケアの回想法に同席して聞き書きをする。それも聞き書き作家で知られる小田豊二さんを講師に招き、水準を上げてきたという本格ぶり。すでに17年続いている。
そしていよいよ2004年に「かあさんの家・曽師(そし)」「かあさんの家・霧島」(写真5、6)、翌年には「訪問介護ステーションぱりおん」を相次いで開設。さらに、2007年には「ケアサロン・恒久(つねひさ)」「かあさんの家・檍(あおき)」、2010年に市原理事長の実家に母親と一緒に「かあさんの家・月見ヶ丘」(写真1)を開設していった。
この間、NHK総合テレビで「最期の家~ホームホスピス入居者と家族の日々~」が全国放送される一方、社会貢献賞、女性栄誉賞、保健文化賞など数々の賞を受賞するなど「かあさんの家」は広く知られるようになって、全国各地でホームホスピス開設の動きが始まった。本誌87号で既報の「ケアタウン小平」の近くに開設された「ホームホスピス楪(ゆずりは)」もその1つだ。
こうした中、2012年に第1回全国ホームホスピス合同研修会を阿蘇で開き、翌年、ホームホスピスが似て非なる形で広がらないために「ホームホスピス」を商標登録、2015年には一般社団法人全国ホームホスピス協会の設立につながった。この年にホームホスピスの質の維持・向上をめざした「ホームホスピスの基準」が2年がかりの議論の末、制定された。
ホームホスピスの基準は現場感覚に沿うものに
「ホームホスピスの基準」のまえがきに「基準」をつくった目的をこう示している。
「ホームホスピス理念に共感し、自分たちの地域でもホームホスピスを実践したいと志す人が増えてきました。私たちは、高齢多死社会の中で、単に死を看取ることだけではなく、いのちを慈しみ支え合う地域を作りたいと願い、活動してきました。このたび、その取り組みが、より良いかたちでそれぞれの地域で広がっていくように、ケアの基準を制定しました」
まず「基本理念」は、「本人の意思を尊重し、本人にとっての最善を中心に考えます」など5項目を掲げている(表)。
表 ホームホスピスの基本理念
- 本人の意思を尊重し、本人にとっての最善を中心に考えます。
- 「民家」に少人数でともに暮らし、通常の「家」という環境で暮らしを継続することを大切にします。
- 病や障碍などの困難な条件下にあっても最期まで生ききることを支え、家族が悔いのない看取りができるように支えます。
- 一人ひとりが持つ力に働きかけ、医療介護など多職種の専門職やボランティアが一体となって生活を支えます。
- 死を単に1個の生命の終わりと受け止めずに、今を「生きる」人につなぎ、そこに至るまでの過程をともに歩む、新たな「看取りの文化」を地域に広げます。
「ホームホスピスの理念を実現するための基本条件」を見てみると、たとえば「住まいであること」の細目は「日当たりや風通しがよく、ちょっとした庭があるとよい」として、その判断基準は、①庭やベランダなどゆとりの空間がある、②団らんの場がある──といった具合にやや抽象的な表現だが、「ホームホスピスを実践してきた人たちの感覚に最も合う表現」と市原さんは言う。
ホームホスピスから広がる地域づくり・町づくり
かあさんの家は地域のさまざまなネットワークに支えられている(図)。たとえば医療では重症度・必要度に応じたそれぞれの方のかかりつけ医と連携して提供される。2020年2月現在、主治医が4医療機関、訪問歯科医が1医療機関、ケアマネジャー9事業所、訪問看護4、訪問リハ2、訪問薬局4、訪問入浴1、福祉用具8、通所サービス2、訪問マッサージ2の各事業所など、地域の多様な社会的資源と連携している。
どの事業所を選ぶかはそれぞれの個人が個別に契約する。つまり入居者の自己選択が基本で、組織的な抱え込みを避ける方針だ。
ホームホスピスは現在、全国に44法人、57軒と広がっている。「どういうわけか福島と神戸に多い。そのわけはあの大震災を受けて、人が生きていく意味を切実に問うた経験に基づいたのかもしれません。訪問看護ステーションをしていた看護師さんが発起人になることが多いのです」と市原さん。
今、医療的ケアが必要な子どもと親のサポートに取りかかっているという。宮崎のまちが、生まれて亡くなるまで、0歳から100歳まで、安心して暮らせるまちになればと、多職種の専門職、大学や行政をも巻き込んで動き出している。「宮崎をホスピスに......です」と声を弾ませた。
(2020年4月発行エイジングアンドヘルスNo.93より転載)
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