第36回 茶菓と金品
公開日:2021年11月12日 09時00分
更新日:2021年11月12日 09時00分
宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
訪問看護の仕事をしていて困ることのひとつに、訪問先で出される茶菓がある。この仕事についた当初は断り切れず手をつけていたのだが、ある時これが思わぬ事態に発展してしまった。
事の発端は、あるお宅での、飲み物の固辞。部屋に通されてすぐ、目の前にある汚れたマグカップに、そのままジュースを注がれた。
マグカップは、しばらく洗われた気配がない。飲み物を継ぎ足し、使っているのだろう。外側もベタベタなら、内側もよどんだ飲み物が入っている。多少の汚れなら、目をつぶる私でも、どうしても手をつけられなかった。
話をそらし、手をつけずにいると、繰り返し何度も勧めてくる。勧めるのは高齢の男性。認知機能にいろいろな支障が出ていて、ヘルパー支援を入れる算段を始めたところだった。
数回勧められ、飲まずにいると、「飲んでください。せっかく出したんですから」。だんだん声が怒気を帯びてきた。私は、「申し訳ありません。お茶やお菓子はいただかないことになっています。病院の方針なので。お気持ちはうれしいのですが、今後は出さないでください」とお詫びして、その日は退出した。
ところがその後、その場を収めようと、私がついた嘘が、思いがけない形で男性に露見しまう。男性は長年作業所に通っていて、そこには私が訪問している別の利用者さんも所属していた。そこで訪問看護が話題になり、看護師が出されたお茶を飲む家と飲まない家があるのがわかってしまったのだ。
私が再度訪問した時、男性はまた目の前のマグカップにジュースを注いた。以前よりは多少きれいだったが、中にはやはり何か入っていた。そこに継ぎ足されたジュース。私はどうしても飲む気が起きなかった。
「ごめんなさい。病院の方針で、いただけないことになっています」。私は前回より早く殿下の宝刀を抜いた。ところが男性は引かない。「作業所で一緒の○○さんから聞きましたよ。○○さんの家では飲んでいるって。僕が出したものは飲めないんですか?」。
私はぐうの音もでなかった。もう飲むしかないかと思った。けれども、マグカップの中のジュースを見ると、表面にカビのようなものが浮いている。やはり申し訳ないが、飲めないと思った。
「○○さんの家に私が行ったのは、かなり前のことです。とにかく今は、病院の方針で、お茶やお菓子は一切いただけません」。私は嘘を突き通してしまった。
このことがあって以降、私は以前にも増して、茶菓は固辞するようにしている。利用者さん同士の情報交換は侮れない。ある所では手を付け、ある所では手を付けない。差をつけると、傷つく人が出てしまう。
時には固辞して気を悪くされる場合もあるが、そんな時は若い頃内科病棟でお世話になった上司の言葉を思い出す。彼女は決して患者さんやご家族から金品を受け取らず送りつけられても送り返していた。
「どんなことがあっても、私は患者さんから金品はもらいません。皆さんにもそうして欲しい。たとえ固辞して気を悪くされたとしても、金品を受け取らない医療者に、患者さんやご家族は、敬意を抱くと信じています」
茶菓も金品も、根は一つ。彼女から学んだ、受け取らないという原点を、これからも大切にしていきたい。
著者
- 宮子 あずさ(みやこ あずさ)
- 看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。
著書
『宮子式シンプル思考─主任看護師の役割・判断・行動1,600人の悩み解決の指針』(日総研)、『両親の送り方─死にゆく親とどうつきあうか』(さくら舎)など多数。ホームページ: