第5回 死ぬのは本当に大仕事
公開日:2019年4月12日 09時00分
更新日:2019年5月30日 10時49分
宮子あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
昭和の終わりから内科病棟や緩和ケア病棟で働き、たくさんの亡くなる方を見てきた。また、実の両親は二人とも見送り、いろいろと思うことがあった。一番変わったのは、人の死について、それがいいとか悪いとか、評価する気持ちが完全に失せたことだ。
特に、両親の中でも、より関わりが密だった母の長患いとつきあった経験は大きい。人一倍エネルギッシュで、社会活動に熱心だった母・吉武輝子は、70代になると肺気腫、大腸がん、慢性骨髄性白血病と大病を重ね、80歳でこの世を去った。
60代になる頃までは、「寝たきりになってまで生きたくない」と言っていた母は、ごくごく普通の感覚で、そう言っていたのだと思う。当時の母は本当に元気。24歳で就職した私は仕事の忙しさもあって、滅多に寄りつかない、近居の娘であった。
そんな母がいろいろな病気に襲われ、亡くなる数年前は在宅酸素を使うようになった。以後は肺炎を何回か繰り返し、その都度少しずつ肺の機能が悪化。慢性骨髄性白血病になった時には、文字通り生死の境をさまよった。
ある日、どうにか当面の危機を脱して退院が決まった時だったと思う。母は私にしみじみこう言ったのだった。「あっちゃん。年をとればとるほど死にたくなくなるものね」。
母の肺は悪化の一途をたどっていて、寝たきりとは言わないまでも、人の助けを借りないと、外出は難しくなっていた。今もその時の場面を思い出すと、ぐっときて泣きそうになる。
母が亡くなったのは、2012年4月17日。母は80歳、私は48歳だった。「早く子どもなんて生まない方がいいわ。親子のつきあいが長すぎるから。親は権力者。50年もつきあえば十分よ」と言っていた母は、本当に50代の私を見ずに苦労のない世界に行ってしまったのだった。
母が亡くなって早7年。改めて私は、母の死から多くを学んだと思う。患者さんの死との一番の違いは、本当に元気だった頃を知っている点。老いと病気がいかにして人を打ちのめしていくか、まざまざと見た。それはかけがえのない学びであり、親は元気すぎるよりは、衰えを子に見せるのがよいとさえ思う。
改めて、「潔く死ぬ」的な感覚は、死が遠いからこそ持てるのではないか、と思う。
じたばた死のうといいではないか。死ぬのは本当に大仕事。どんな形であっても、逝った人はそれをやり遂げたのだ。死に、いい死も悪い死もないのである。
著者
宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。
在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。
著書
『宮子式シンプル思考─主任看護師の役割・判断・行動1,600人の悩み解決の指針』(日総研)、『両親の送り方─死にゆく親とどうつきあうか』(さくら舎)など多数。ホームページ: