第41回 訪問看護室の業務が終わります
公開日:2022年4月 8日 09時00分
更新日:2022年4月14日 19時19分
宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
2009年4月から勤務している訪問看護室が、まもなく業務を終える。昨年末にその決定を上司から知らされた時、ああ、来るべき時が来たんだな、と素直に思った。
この訪問看護室ができたのは、およそ30年前。訪問看護の制度ができる前、病棟から行った訪問が前身だそうだ。当時は訪問看護の黎明期で、訪問看護と言えば、身体、特に終末期看護が中心だった。そのため、精神科領域の訪問看護を行う所がなく、病院に専門の部署を作らざるを得なかったのである。
その後、国は精神科病院に長く入院している患者さんを退院させるために、精神疾患を対象とした居宅支援の充実を図った。その結果、精神科訪問看護を行う事業者がどんどん増えてきた。
私たちもその時流に乗ってきたわけだが、だんだん風向きが変わってきた。なるべく機能分化を進めようとする国は、大きな病院が訪問看護を担う形を歓迎しなくなったのである。
国が推進したのは、訪問看護を専門に行う訪問看護ステーション。診療報酬の点で、明らかに差をつけてきた。
具体的には、まず、取れる料金に差がある。30分から1時間の訪問看護では、病院が5,730円なのに対し、訪問看護ステーションは8,210円。また、病院は理学療法士によるリハビリテーションが算定できない。
国は診療報酬の利益誘導によって、国にとって好ましい医療体制を整える。それに逆らい、がんばっても先は見えている。これは医療の世界で働く者にとっては、しばしば大きな倫理的葛藤を生む。
なぜなら、国が目指すのは国にとって好ましい医療体制。これが、個々の市民にとって好ましいとは限らないからだ。
最たる例が入院期間で、これを短縮したい国によって、病院は患者に退院を迫らざるを得ない。訪問看護の立場からも、もう少し身体の具合が良くなるまで入院できれば、と思う場面がいくつもあった。
私が勤務する訪問看護室についていえば、数年前、訪問看護ステーションとして独立することも検討された。しかし、当時は敷地外に事業所を置くなどの条件が難しいとの経営判断で、見送られた。その時点で、いずれ業務を終える日が来るかもしれないと思ったのだった。
今年に入ってからは、デイケア、ケアマネージャーなど他の支援者とも連携し、訪問看護ステーションへの移行を進めた。その過程で、こんなにも多くのステーションができているのか、と驚かされた。
サービス内容も、ステーションによっていろいろ違いがある。24時間対応や電話相談、臨時訪問の融通性などなど。得意とする年代や疾患もなんとなくあるようで、利用者さんにあったところを紹介するように心がけた。
また、移行にあたっては、これまでの経過を記載した要約を作り、希望に応じて引継ぎのための訪問への同行も行ってきた。3月半ばには移行はほぼ終了。日々の訪問看護はほとんどなくなり、部屋を明け渡すための整理に追われている。
最後に残った看護師は私を含め4名。それぞれ他の部署への異動が決まり、私は慢性期混合病棟の配属となった。性別問わず、急性期を抜け、症状が落ち着いたものの、家に帰る所まで行かない人が入院している病棟である。
電子カルテで入院患者の名前を見ると、以前訪問看護にうかがっていた人の名前が数名あった。加齢や症状の悪化から、家で暮らせなくなった人がそこにいる。家にいた頃のようには行かないだろうが、懐かしい話もできれば嬉しい。
今は異動を前に、とても緊張している。何しろ、病棟は13年ぶり。その当時は管理職だったので、仕事の内容はかなり違っていた。いわゆる役職なしの看護師として働いたのは、20年以上前。きっと色々失敗もするだろう。
それでも、訪問看護で働いた13年間は、きっと病棟でも役に立つはず。その経験が活かせるように、新たな場所で頑張ります。
著者
- 宮子 あずさ(みやこ あずさ)
- 看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。
著書
「まとめないACP 整わない現場,予測しきれない死(医学書院)、『看護師という生き方』(ちくまプリマ―新書)、『看護婦だからできること』(集英社文庫)など多数。ホームページ: