健康長寿ネット

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第82回 低血糖

公開日:2024年7月12日 08時30分
更新日:2024年7月12日 08時30分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師


5月の末の月曜日、運転免許証取得のための認知機能検査を受けるために試験会場の待合室にいた。
勤務しているクリニックの事務員から携帯に電話がかかってきた。
「警察署から先生に聞きたいことがあるそうです」
不吉な思いが過った。「Sさんが、奥さんと二人でN市で死んだそうです。不審死だそうで先生に事情を聴きたいと言っていました」ということであった。
「次の日の朝に警察署へ私の方から直接連絡をする」と事務員に伝えた。
私の頭は混乱した。
83歳のSさんを最後に診たのは2週間前であった。几帳面な人だった。
80歳になるまで近隣のY市に住んでいたが娘の勧めで妻と共に名古屋へ移り住んでいた。
Y市の市民病院から丁寧な紹介状を持ってきていた。
インスリン依存性の糖尿病で20数年前からインスリンの自己注射をしていた。朝、昼、晩と血糖を測り、その値に応じてインスリン量を調節して自分で腹部に注射するのを日課にしていた。
高齢者の場合、若・壮年者ほどの血糖コントロールは必要ないのだが、彼は厳格なコントロールを自らに課していた。
血糖の値を記録した手帳を毎月持ってきたが、血糖値の変動は常に正常値の範囲内を示しており、見事であった。
しかしあまりに厳格過ぎて低血糖に陥る危険性を孕んでいた。

名古屋へ出てきて半年ほど経ったころ「友達がいない」といって寂しそうであった。半年後には老人の会合に出かけるようになったと言っていたが、その表情からは満足感は伺えなかった。
Y市での生活が懐かしいといって、名古屋へ引っ越してきたことに後悔の念を滲ませるようになった。
引っ越しから1年後彼に災難が襲ってきた。
元気であった妻が鬱状態となったのである。医者の診断によると「認知症」であったそうだ。
何の楽しみもなくなった彼には糖尿病のコントロールだけが生き甲斐になったようだった。
先週、娘に連れられて私の外来に現れた。「意識が薄れる時がある」と娘の説明であった。低血糖の症状が出現していたのである。
私は血糖値を高めに保つように指導して更に高齢者の糖尿病ではそれほどの厳格なコントロールは必要ではないと言い含めた。

免許証試験の最中、"Sさんの死"と"免許証試験"で私は混乱していた。
次の日にクリニックへ出勤して警察署へ電話をした。
刑事によると、Sさんが死体で発見されたのは公園であった。妻と二人で死亡していたという。
刑事が聞いてきた。
「インスリンを大量に注射するとどうなります?」私は答えた。「大量に打てば低血糖になり手当てしなければ死亡します」
はっきりしたことは不明であったが、刑事からの電話ではインスリンを使った自殺であったようである。
妻にもインスリン注射をしたかどうか不明であるが、刑事の口ぶりからはその可能性が高かった。
血糖を厳格にコントロールすることだけが彼の生きがいであったのかも知れない。その生きがいを私は奪ってしまったのか?との後悔が私を襲った。

今日は自動車免許の試験が終わってから5日目である。まだ私の試験の結果はわからない。

著者が警察署と事務員と電話している様子を表わす図

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など

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