第21回 お別れ
公開日:2019年6月 7日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時59分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
長い間、私の診療している病院へ通院していたYさんが「転院をしたいので紹介状を書いて」といってきた。
Yさんとお別れすることになった。
それを聞いたSさんが「アトはハコに入るだけ」と悲しそうな顔をして言った。
「何もいいことはないのでこれからの人生は棺桶に入るのを待つだけ」という意味だった。
Yさんに会えなくなることを知って意気消沈してしまったのだ。
SさんとYさんが、私の外来へ通院するようになってすでに20年になる。
Sさんは83歳の男性で妻と二人暮らしである。YさんはSさんより2歳年上の85歳の一人暮らしの女性である。畑仕事が趣味で、日焼けした皺の肌の持ち主である。
腰痛のために腰が曲がっており杖を頼りに歩いている。
二人はいつも同じ日の同じ時間帯を予約していった。
SさんがYさんに好意を寄せていることは誰が見ても明らかであった。
私から見てもSさんはYさんに恋心を抱いているのはよくわかった。
そのYさんが今回の受診を最後に、来院しなくなるというのだ。
医者は別れの多い職業である。
長い間、毎月規則正しく通ってきていた患者が来院を中断するのは、患者の転勤による転院が主な理由である。
転院先へ紹介状を書き終えて別れの挨拶をするときには一抹の寂しさが漂う。涙ぐむ患者もいる。
中には何の連絡もなく来院しなくなる場合がある。
その場合には二つの理由が考えられる。
一つは医者への不満がつのり、医者には何も告げずに転院した場合である。
患者はさよならも言わずに来なくなる。
嫌われた医者には「何が落ち度で来なくなったのか?」原因が分からないので、面食らうのが普通である。
予約患者が来なくなる事態が数例続くと医者は不安になる。
「何か悪い噂でも広がったのでないか!?」と疑心暗鬼に陥る。
消息が分からぬままに来院しなくなる場合の二つ目の原因は死亡である。
患者が亡くなっても家族から何も言ってこないことがある。
高齢の女性の場合は一人暮らしが多く、家族は生前どの病院へ通院していたのかも知らない。
患者たちは様々な事情で来院しなくなるのだがYさんの場合は車の運転であった。
今まで自分で運転して来院していたのだが、運転免許証を返上することにしたのだ。
歩いて通院できる近くの病院に替わりたいということだった。
病院は医者と患者の出会いと別れの場所だけではなく、患者同士の出会いとお別れの場でもある。
Yさんに出会えなくなったSさんは「ハコに入りたくなった」のだった。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数