第30回 ゆりかごから墓場まで
公開日:2020年3月 6日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時55分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
私は毎週火曜日にスーパーで買い物をする。
その時に洗濯物をクリーニング屋へ持っていく。
1月28日の火曜日は冬にしては暖かい日でみぞれのような雨が降っていた。
スーパーの南西の角にクリーニング屋がある。
そこは暖房もクーラーもないので冬は寒くて夏は暑い。野球のシーズンになると「燃えよドラゴンズ」の歌が流れ続けている。
最近は初老の女性が受付をやっている。年はとっているが新人である。
「1枚、2枚、3枚ーーーーー6枚」とカウンターで私の出したワイシャツを数えて右端にあるレジに向かった。
レジに打ち込む前に考え込んでしまった。
しばらくおいて私に向かって「6枚って?いったよね?ワタシ」と言った。
「うん、そういった」と私が答えた。
老人は清潔でなければならないのでワイシャツは外出の度に替える。
だからクリーニングに出すワイシャツの数は前の週の外出の日数と同じである。
いつもは「やっといてね」と告げて洗濯物の入った袋を預けて買い物をした。その間に先週預けておいた洗濯済みの衣類を袋にいれておいてもらう。
帰りがけに持って帰る、というのが今までの習慣であった。
しかしその女性は「そのままそこで待っていて」と言った。
一連の作業の間、カウンターの前で待てということだった。
「預けたまま忘れて帰ってしまう人がいる」からだそうだった。
私はしぶしぶ彼女の物忘れに付き合った。
いつもはクリーニング屋は最後に立ち寄る場所であったので右回りに買い物をしていた。
その日はその必要はなくなったのでいつもとは逆の順で買い物を始めた。
つまり左回りに買い始めたのである。
入り口から順に野菜があり、漬物があった。
私の頭がスムーズに作動しなかった。
始めに野菜を買う習慣がなかったからである。
川下から上流に向かって泳いでいるような気分になった。
その日の夕食を何にするかは素材を眺めて決める習慣がついていた。
肉にするか魚にするかを決めてから野菜を買うのが私のいつもの習慣であった。
最初から野菜を買うのは下りのエスカレーターを上っているようなものである。
私は思いなおしていつものように右回りに買うことにした。
私の頭は巻かれたバネが解きほぐれるように緩やかに回転を始めた。
入り口から順にお菓子があって牛乳があって、ハムがあって、パン、肉類、魚、惣菜となって最後が野菜である。
牛肉を眺めているうちにすき焼きにしようと決めて牛肉を買って最後に白菜を買った。
私たちの記憶も逆方向に記憶装置を回すと上手く回らない。
記憶はいったんは過去のどこかの時点に戻りそこから現在に向かってきて未来を向いている。
墓場―葬式―定年―結婚という順よりは結婚―定年―葬式―墓場の順で思い出した方が無理がない。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など