第53回 繰り返し
公開日:2022年2月 4日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時51分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
昨年の暮れに我が人生を振り返り感慨に浸ってみようと思った。
机の引き出しから50年前からの手帳を出して覗いてみた。
眺めているうちにこみ上げるだろうと思っていた感慨は50冊に及ぶ手帳からは湧いてこなかった。
「もう一度同じ人生をやり直すか?」と問われたら「もう、うんざりだ」と答えるだろう。
数年前までは、年末になると製薬会社のMR(Medical Representatives:医療情報担当者のこと)が次年度用の手帳を持ってきたものだった。
1年間の予定を新年度用の手帳に書き込むのが年末から1月の中旬までの私の仕事であった。
外来、ネーベン(大学病院に勤める医者のアルバイトのことをネーベンと呼んでいる)、会議、学会の予定などを書き入れるのだ。
毎週の決まっている定期的な予定を1年に亘って書き込むのは時間のかかる退屈な作業であった。
会議中に司会者に悟られぬように手元の手帳への書き込みをするのが年中行事になっていた。
何時の頃からかMRが手帳をもってくることはなくなった。
スマホの普及により手書きの手帳を利用する医者が少なくなったからである。
外来患者の多くもスマホで予約を管理している。
診察室に居座ったままスマホの画面に入力する患者もいる。
1年ほど前までは外来に居座って予約の日時を入力する患者に私はいらいらしていたが、最近では多くの患者が30秒もかからずに入力を済ませてしまう。
私は相変わらずスマホは苦手で患者が指先でスイスイとやっているのを眺めている。
60歳代の男性に「よくそんなことができるね」と私がお世辞を交えて感心したふりをすると「先生のスマホは何ですか?」と訊かれたので「ソフトバンクじゃない!?」と言うと「機種は?」ときかれて「ドコモ」と答えると「会話が成立しない」とあきれられて、それ以上話が進まなかった。
私には今もって何故会話が進まなくなったのか理解できていない。
私は2017年からパソコンでも日程の管理をするようになっている。スマホは苦手だがパソコンはできるのである。
昨年の7月頃までは「なんとなく心配で」手帳にも書いて、パソコンにも入力していたが、今年からは手帳は使わなくなった。
パソコンには「繰り返し」という便利な機能がある。
飽き飽きするほどに手帳に書き込んでいた日程はパソコンでは「繰り返し」を選択することにより一瞬のうちに何年先でも書き込まれてしまう。
手書きの手帳に書き込む時は「その日暮らし」のようにみえていた私の日常は「繰り返し」の連続であったのだ。
「繰り返し」以外のイベントは思いの他少ない。
あれほど時間をかけて作っていた年間の 予定表が簡単に完成してしまった。
そのうちに繰り返す項目も次第に少なくなっていき、やがて私の予定表は要らなくなるのだろうか。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など