第68回 水すまし
公開日:2023年5月12日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時45分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
昨年の8月に新車を買った。同じ頃にスマホを新品に変えた。
クリニックの電子カルテも新しくなった。
新車でクリニックへ出かけ新しいカルテで診察して新しいスマホで電話をする。
いずれの機械も私には不慣れな最新の電子機器を搭載していた。
私は水すましが水面を渡っているような危うさの中で生活をしていた。
「高齢者は自動車免許を返納しろ」と多くの国民が思っているのは承知している。しかし車の安全装置は日々進歩しているので、高齢者の運転技術の衰えを機器の進歩が支えてくれていると信じていた。
最先端の機能を備えている車の筈であったが、運転中に電話がかかってくると座席に置いてあるスマホを探して耳元へ近づけて通話をしなければならなかった。
私のスマホと車の電話機能がBluetoothで繋がっていなかったのである。
販売店へ出かけて行くと女の子が数分で繋げてくれた。誰にでもできる簡単な作業らしかった。
2か月後、再び繋がっていないのに気付いて再度販売店まで出かけて直してもらった。
それから数か月ほどたって、相変わらず車の中で電話が鳴らないのに気が付いた。
販売店まで出かけるのは面倒なので大学の研究室へ出入りしている電気業者に「申し訳ないけどー」とお願いした。
気のいい青年が駐車場の車まで歩いて行って一生懸命に接続を試みてもらったが何故か繋がらなかった。
すでに車購入から半年が経っていた。
再、再度販売店へ出かけた。
そこで思わぬ事実が発覚した。
私の購入した新車にはハンズフリー機能が適応されていないことが分かったのである。
過去に2回も出向いて繋いでもらったつもりでいたが、その時にハンズフリーで通話ができるかどうかを確かめていなかった。当然繋がったと思い込んでいたので「ありがとう」を繰り返して販売店を後にしていたのだ。
6か月の間、不調の原因はもっぱら私に責任があると思い込んでいた。
しかし原因は車の方にあったのだ。
私は欠陥品を買わされたのだと思った。
「車全体が欠陥品ではないのか?!」と思いつくと怒りの感情が湧いてきた。
私の怒りは半年もの間、問題の本質にたどり着けなかった販売店に向かった。
「もう2度とこの会社から車は買わない!」と啖呵をきって販売店を後にした。
販売店も困ったようだった。
彼らにも初めての症例であるらしかった。
その後、販売店で調査をしたところ私のスマホに原因があることが判明した。
車の購入と同じ時期に買ったスマホに問題があったのだ。
スマホのBluetoothの準備ができていなかったのが原因であった。
スマホの販売店の怠慢であったのだ。
ひたすら恐縮してお願いして頭を下げて回った半年であった。
Bluetoothなどという聞きなれない機能の名前さえ知らなかったのに、世間では当たり前の通信手段であることを知ったのは、この事件を契機にしてからであった。
今では問題が解決して、私の怒りも収まった。
そして相変わらず水すましのように水の上を危うく渡り歩いている。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など