第19回 ぼっち飯
公開日:2019年4月 5日 09時00分
更新日:2023年8月21日 13時00分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
私の子供の頃の農村では「結い」という風習があった。田植えや稲刈りに村で順番を決めて総出で手伝う互助組織を「結い」と言った。
村人が寄り合いながら、もたれ合い、励ましあいながら生活していた。
田植えをしながら、稲を刈りながら、おしゃべりをしながら作業をした。
いつも誰かの噂話をしていた。単純な作業を続けられるのは人の悪口を訊くことができるからであった。
そこにいない者が噂の対象になるので、参加できない人は不安にさいなまれることになる。
そんな危うい生活を送っていても人間関係が破綻しなかったのは、村中が貧乏であったからだ。
少ない資源を子孫に受け継ぐ知恵が「結い」であった。
「結い」の仲間から外れるとその村で生活が困難になってしまう。
私は仲間はずれが恐ろしいことを子供の頃から教えられて育った。そんな田舎が嫌いで、都会へ出てきて、様々な社会を経験したが、どの社会でも仲間はずれを巡る事情に大きな差はなかった。
日本の社会は「ひとりぼっち」は最も避けたい境遇であるという社会通念が長く続いてきた。
一人で食事を取ることを「ぼっち飯」と言うそうだ。
最近、NHKのテレビで「若者に広がるソロ活」という番組を見た。
一人でいることを前向きにとらえて、お金や時間を自分のために使うことを「ソロ活」というそうで、一人で焼き肉に行くのを「ソロ焼き肉」というらしい。
ソロ活が若者の間で広がりを見せているという。
一人で飯を食べることが「可視化」されたそうだ。
「可視化」とは一人で飯を食うことを大っぴらに認めるということのようだ。
「一人回転寿司」というのがあり、「一人ランチクルーズ」があり、「一人用こたつ」というものもあるそうだ。
彼らは会社での飲み会には行きたがらない人たちで、最初から仲間に入らないのだから仲間外れの危険はない。
むしろ仲間から外れたいと望んでいるらしい。
しかし彼らとてずっと一人でいたいわけではないという。
知らない人との付き合いは積極的にするのだそうだ。
初対面の知り合いはプライベートな知り合いで、つまり因果関係にない知り合いなので私利私欲がなくて、人に気を遣わなくていい。縛られないつながりがいいんだそうだ。
私はそのテレビを見て究極の田舎社会からの脱出かもしれないと思った。
しかし、と私は現代の老人のことを思う。
旅は帰るところがあるから楽しいわけで、「ソロ活」の若者には会社という帰るところがある。
現代の老人の「一人飯」は帰るところのない「ぼっち飯」である。
「ソロ活」などしなくてもひとりぼっちである。
現代に「結い」はなく、年寄りが一人でいても、誰も気づいてもくれない。
年寄りのひとりぼっちは可視化されない。
外れる仲間もいない老人には悪口を言う人もいない。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数