第16回 インスリン注射のすすめ -糖尿病患者がゴルフを止めた場合-
公開日:2018年12月26日 11時46分
更新日:2023年8月21日 13時01分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
ドライバーでボールを遠くに飛ばし、アイアンでグリーンに乗せて、パターで穴に入れる。それをいかに短い手数で終わらせるか。それだけの単純な作業がとても大事な人たちがいる。
ゴルフの腕前を伸ばすことだけが唯一の生き甲斐である人たちである。
定年後はゴルフのスコアを縮めることに毎日の生活が費やされる。庭の草木の手入れや水やりであっても筋肉を鍛えるためにある。読書もテレビもゴルフ中心である。
お金を節約するのも新品のドライバーを買うためである。
しかしゴルフ三昧の定年後生活は長く続かない。
毎回同じメンバーでゴルフ場へ行くようになるので、仲間内の確執が生まれてきて、人間関係がややこしくなるからである。スコアが落ちると仲間はずれにされたような気分に襲われる。
練習のし過ぎで腰痛が発生する。
そのうちに練習しても成果が上がらなくなる。
人間は成果が出ないと努力をしなくなるものだ。
そしてついにゴルフをやらなくなる。
ゴルフだけが生きがいであって他に何の趣味も持たなかった人がゴルフを止めるとどうなるか。
体は精神の奴隷である。生きがいをなくしてしまった体はお地蔵様のように動かなくなる。
家にいてテレビばかりを見て過ごすようになる。
ゴルフ場の芝生からアイアンを使ってスカッとボールを飛ばしたころの姿はない。
妻は人生で初めて朝から夜まで毎日夫の行動を観察する羽目になる。二人は2ヶ月も3ヶ月も寝食を共にしたことは人生で初めてである。
妻の問いに反応しない夫。
夫が何か考えているかに見えて何も考えていないことが分かってしまうと妻は悲しくなる。
妻のイライラは募り、起床した夫に「なぜ起きるの!ずっと寝ていなさいよ!!」というようになる。
ゴルフでスコアを縮めるという目標を失ってしまったので毎日の生活は金の出ないパチンコをやっているようなものだ。腰が重くなり身の回りの物しか動かさなくなる。
夫が糖尿病の場合はどうなるか。
事態が更に深刻になる。残された唯一の楽しみである食べることが制限されるからである。
妻の目を盗んでは甘い物を口に入れる。妻が目を離した時はチャンスと捉える条件反射が身についてしまう。
妻に小言を言われ続けられるほど大きなストレスはない。
ストレスは糖尿病状態を悪化させる。
そしてついに血糖のコントロールを内服剤では制御できなくなってしまう。
生きるためにはインスリンを打つしかない。
インスリンという武器を使って血糖値を自分でコントロールするすべを習得しなければならなくなる。
ドライバーの代わりに注射器を握ってボールの代わりにインスリンを打つようになるのである。
スコアカードには血糖値を記入することになる。
(イラスト:茶畑和也)
著者
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数