いつも元気、いまも現役(解剖学者 養老孟司さん)
公開日:2022年7月 8日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時14分
こちらの記事は下記より転載しました。
ゾウムシなどの甲虫類標本が並ぶ「養老昆虫館」
箱根・仙石原のプリンスホテル入口ゲートの向かいに養老孟司さんの別荘「養老昆虫館」はある。2日仕事がないと鎌倉の自宅からここに来るという。黒い焼杉の外壁と黄色いモルタル塗りのファサード(正面部)が印象的だ。昆虫の顔のちょうど口のような部分が入口になっている。シンポジウムで知り合った建築家の藤森照信氏の設計によるもの。隣りの別棟の白い壁面には「馬」と「鹿」が向かい合って描かれている。南伸坊氏のイラストによる「バカの壁」だ。まさに、養老さんのベストセラー『バカの壁』がここに実在する。
中に入ると壁面いっぱいに昆虫標本のケースが並ぶ。主にヒゲボソゾウムシとクチブトゾウムシなどの甲虫類。大きさはゴマ粒より小さいものから数センチ大のものまでまちまち。どこからも家の中全体が見渡せる開放的空間。吹き抜けの2階天井の天窓からは陽が差し込む。
南側の顕微鏡が4つ並ぶ標本製作室から養老さんは現れた。今年85歳になる"知の巨人"は早口だが穏やかな口調で語り始めた。
語り下ろしの『バカの壁』が歴代4位のベストセラーに
2003年出版の『バカの壁』は売上げ450万部を超えて、戦後歴代4位のベストセラーとなった。ちなみに1位は『窓ぎわのトットちゃん』、2位は『ハリー・ポッター賢者の石』、3位は『五体不満足』だ。これが初めての「語り下ろし」で、久々の「書き下ろし」となったのが2017年の『遺言。』。2016年、クイーン・ヴィクトリア号で行ったカナリヤ諸島への船旅の、空いた時間に書いたものだ。テーマは「感覚所与と意識の対立」というもの。「自然」とは反対のベクトルの「意識」は脳化、都市化とも表現されるが、1つのいびつな世界を指している。
「これまで何冊の本を出されましたか?」と聞くと、「数えていないからわからないけど、100冊は超えているでしょう」という。
ベストセラーが生まれる背景は、その本が優れていて面白いというばかりではない。いわばその時代が求めているものとの共鳴が不可欠だ。養老さんはそうした「社会に不足しているもの」を見つけるのが得意だと自負している。
たとえば大学時代の学習塾がある。まだ受験戦争が過熱気味になる前に始めた塾は大変繁盛した。次に日本解剖学会100年での人体展示がある。実物の人体を展示することに抵抗は少なくなかったが、これも大盛況となった。そして『バカの壁』だ。
「だから足りないものを探すのです」
「書くのは速い方ですか?」と聞くと、「人と比べたことがないからわかりません。無理やりやっていると、遅くなります。気に入らないと全部書き直します」
57歳で東京大学を辞めた。そのいきさつを聞くと、「本当は55歳で辞めるつもりだったが、自分の都合だけではいきません。これ以上いると不祥事を起こしそうでした。教授会で辞めることを言うと、よく言われたのは『お前は辞められるからいい』。『4月からどこかに決まっているのですか?』と聞かれたから、『辞めてから考えます』と答えると、『不安ではないですか?』。それに対して『あなたはいつお亡くなりになりますか?不安ではないですか』と言い返しました。大学を辞めたのは自分の"ものさし"で決めたことです」
何でも分類して箱に収めたがる
「解剖は心が落ちつきます。生きた人間は面倒です。こんな山奥で人がいないところにじっとしているじいさんは鴨長明、西行、松尾芭蕉のようです」
「面白ければ分野は問いません。よくわからないが、世の中の人は分野分けをしたがる。解剖学は全分野につながっているから共通しています。よく『養老さんの本は哲学でしょ?』といわれますが、『哲学とは何か、教えてくれ』と言います。ちゃんと返事をできないことはわかったうえで言う。これはソクラテスの言い方です。何でも分類して箱に収めたがる。そうすると箱と箱の間になると、分類に困る。純文学とは何ですか?芥川賞と直木賞がどう違いますか?」
「子どもたちとの昆虫採集は今もやっていますが、子どもより親が夢中になります。親の世代は子どもの頃に遊ばせてもらっていなかったからでしょう」
子どもを型にはめて管理しすぎている現状も批判する。「夜の地下鉄で学習塾帰りの子どもたちが走り回っています。これは児童虐待です。子どもを小さい大人とみています。子どもをみている大人もハッピーではありません。ブータンでは少女が野原に座ってのびのびと本を読んでいました。日本の小学生とブータンの子どもたちを入れかえてみたらいい。10代、20代、30代の死因の第1位は自殺です。こんな国を一生懸命つくってきたのです。現在足りないのは子どもの幸せです。目の前の子どもをニコニコさせることです。『人生意味がない』というのは小さい時にいい思いをしたことがないからです」
マンガで音訓両使いの日本語の訓練
「マンガはいかにも日本語的で、マンガを読んで日本語の訓練をしているようなものです」
マンガには図形と吹き出しの文章の音訓読みと、それぞれ脳の使う部分が異なるという複数部分の脳を使う特色があるという。「日本語は音訓読みや送り仮名で意味が変わります。1000年間、音訓両使いをしてきました。重い、重ねる、重大という具合に『重』の意味を変えます。さらにマンガの図形が加わって複雑性を持ちます」
養老さんはマンガにも造詣が深く、2006年にできた京都国際マンガミュージアムの初代館長を10年間つとめた。館内には200メートルに及ぶ「マンガ本の壁」がある。
「男女の脳を比べると、女性の脳梁が太くて左右脳の連絡がいいのです。言葉は左脳ですが、NHKアナウンサーの山川静夫さん、フリーアナウンサーの古舘伊知郎さんのように、実況放送できる人は左右の両脳を使っています。左の脳が脳卒中になると漢字かカナのどちらかが読めなくなります。つまり別の部分の脳を使っているのです。どうも感性から入るものを無視し、それを低俗なものとする傾向があります。たとえば『青』の文字を赤ペンで書くと子どもはそれを『赤』といいます。近代教育は感覚を無視します。足りないものを見つけることです。自分に合った仕事はありません。仕事は地面にあいた穴のようなものです。穴は困るので埋めるとカネになる。つまり仕事は、自分に合っている、合っていないというものではありません」
2年前に心筋梗塞が見つかり運よく助かる
2020年6月下旬、70キロ以上あった体重が1年で約15キロ減少した。体調が悪くやる気が出ない。当時82歳で、40代から続く持病の糖尿病の症状か、それともがんか、あるいはコロナ禍の巣ごもり生活による「コロナうつ」かと考えた。
この歳なら多分がんだろうとアタリを付けて、26年ぶりの東大医学部附属病院で教え子のがん専門医に診てもらった。そうしたら心臓の血管が詰まった心筋梗塞が見つかった。もっと太い血管だとアウト、細い血管だったため助かり、ステントを入れて2週間の入院生活となった。
養老さんに長寿社会を生きる人々へメッセージを伺うと、「自分が理想と思える状態を高齢者自身が考えていかなければなりません。思いきって生きてこなければ何歳まで生きても満ち足りない。まだまだという思いが残ってしまう。だからこそどんな年代の人も思いっきり生きなければなりません」。
今年4月、養老さんはインターネット上の仮想空間である「メタバース」のルールづくりを進めるメタバース推進協議会の代表理事に就任した。まだまだバリバリの現役だ。
撮影:丹羽 諭
(2022年7月発行エイジングアンドヘルスNo.102より転載)
プロフィール
- 養老 孟司(ようろう たけし)
- PROFILE
1937(昭和12)年11月11日、神奈川県鎌倉市生まれ。小児科医であった養老静江さん(1899~1995)の次男として生まれた。11歳上の姉と10歳上の兄に囲まれ、診療で忙しい母に代わり姉が末っ子の孟司さんの面倒をみていた。父親は孟司さんが4歳の時に結核で亡くなる。御成小学校、栄光学園中学・高校、東京大学医学部へ進む。東大病院の研修医時代に医療事故を起こしかけ、臨床医の道を諦める。脳に関心があって精神科医をめざすが、定員オーバーで抽選となり、結果的に解剖学教室に進む。東大助手・助教授を経て、1981年に解剖学第二講座教授。在職中から脳や解剖などの著書を数多く出し、テレビなどにもよく登場していた。1995年に東大を57歳で退官。以後は北里大学教授、大正大学客員教授を務めた。京都国際マンガミュージアムの初代館長を2006年から10年務め、現在は名誉館長。2003年出版の『バカの壁』はベストセラーとなった。
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