いつも元気、いまも現役(NPO法人仙台敬老奉仕会理事長 吉永 馨さん)
公開日:2025年1月17日 15時00分
更新日:2025年1月17日 15時46分
高齢者施設にこそボランティアが必要
NPO法人仙台敬老奉仕会(以下、奉仕会)の事務所は、東北大学医学部にほど近いビルの3階にある。奉仕会は高齢者施設に傾聴や散歩などのボランティアを養成・派遣する組織だ。2006年に吉永馨さんが77歳のときに友人3人で立ち上げ、96歳となる今も理事長として活動を続けている。東北大学病院長まで務めた吉永さんがこうした活動を続けてきたことに仙台市民は驚いた。吉永さんは病院時代から高齢者施設にこそボランティアが必要だと感じていたのだという。2024年9月に地元紙・河北新報の「みやぎ ひと 道」という欄で、吉永さんの生い立ちからこれまでの人生の歩みに焦点を当てた14回の連載記事が掲載された。
5年ほど前に自宅庭のアサガオを写真に収めようと接写しようとしたとき、足を滑らせて大腿骨を骨折した。入院・リハビリで長い時間がかかったが、現在は杖を使ってゆっくり歩けるようになった。「でも内臓は元気ですよ」と笑った。
一人は医者にしたいという父の願い
吉永さんは1928年に栃木県・祖母井(うばがい)町(現・芳賀町)で、半農半商の家に生まれた。10人きょうだいの9番目で、女性は4歳上の姉1人だけ、他は男性ばかりというにぎやかな家庭で育った。
明治元年生まれの祖父が医者で、宇都宮で病院を始めたが、財産の一部を売ってドイツに留学したものの、結核で亡くなってしまった。その時、父は9歳だった。
農業を中心に肥料を商う仕事もしていた父は、子どものうち1人は医者にしたいと思っていた。
旧制二高から東北大医学部へ
地元には中学校がないため、親元を離れて20キロ南にある旧制の真岡中学校に入った。3年のとき太平洋戦争の末期で、宇都宮の飛行機工場に動員された。部品を他の部署に運ぶ伝達係の仕事を1年続けた。時折、飛行機工場をねらってアメリカ軍のグラマン戦闘機が襲撃することもあった。16歳のとき、雑音でよく聞き取れない玉音放送があり、そのあとの内閣告示の放送で終戦を知った。
4年で卒業して、旧制山形高校を受けたが不合格。もう1つ受けた宇都宮農林専門学校の林学科に入ったが、面白くなくて1学期で退学した。浪人して猛勉強で仙台の旧制二高に入った。旧制高校最後の世代で、バンカラな"二高魂"に染まった。
1年のとき入学時の成績がよく理科5組の級長に選ばれた。5組と6組は医学部志望のクラスだ。2年になると、二高は学制改革で新制東北大に切り替わったが、吉永さんは最後の二高生として卒業し、東北大医学部に入学した。21歳のときだ。
患者の富田勇作さんに感銘
当時は大学卒後1年間のインターンを経て、その後、医師国家試験を受けるという時代だった。インターンは北海道・滝川町立社会病院(現在、市立病院)に行った。その後、東北大医学部第二内科に入り、高血圧と腎臓病を専門にした。
27歳のとき2年間秋田市の秋田組合病院に赴任した。結核病棟が2つあって、そこで30歳すぎのクリスチャンの富田勇作さんと出会った。
「自身が重い結核患者であるにもかかわらず、他の患者を励まし、何事にも感謝する姿に感銘を受けました。どうしてこんなに立派なんだろう」
もう1つの出会いは、内科外来の事務していた女性と会い、のちに結婚したこと。
アメリカの宣教師との出会い
東北大医学部第二内科に戻り、1958年に助手となり、高血圧と内分泌の研究に没頭した。褐色細胞腫の研究が英国の科学誌「ネイチャー」に掲載されて、研究者として華々しい実績を残していった。この研究の前には「どこかの病院にでも勤めようかと思っていたが、研究が面白くなった」と振り返る。
父が亡くなり1961年に栃木から仙台に母を呼び寄せた。この頃から毎週、バプティスト教会に通い始めた。このときのアメリカ人宣教師であるポートライトさんとの出会いが吉永さんに大きな影響を与えた。
ポートライトさんはアメリカの大学の工学部を出てエンジニアを目指していたが、第二次世界大戦でドイツ戦線に兵士として送られ、たまたま体の調子が悪く、別の兵士に代わったところ、その兵士が戦死してしまったことがあった。アメリカに帰国後、神学校に入り直し、宣教師になって仙台の教会に伝道に来ていた。
ポートライトさんとは家族ぐるみの付き合いとなり、1963年35歳のときに奥さんと母親と3人でバプテスマ(洗礼式)を受けた。
病気を診るのではなく、病気を持った人間を診る
1966年、一連の研究が評価され、第二内科の助教授になった。この頃、全国の医学部卒業生が青年医師連合(青医連)をつくり、東北大も参加して1967、68年に医師国家試験をボイコットし、インターン制度は68年に廃止された。助教授という立場は教授と若い医師や学生との間に挟まれて両者をつなぐ役割だった。「両方の気持ちがわかるから」と振り返る。
1973年に第二内科の教授になった。44歳のときだ。その後、病院長、医学部長にもなり、1992年3月(63歳)に37年間勤めた大学を定年退官した。最終講義のテーマは、「良き医師たれ」「臨床医学は人道である」「病気を診るんじゃなくて、病気を持った人間を診るんだ」。
退官後は東北労災病院長を9年間勤めた。このときにホスピス(緩和ケア病棟)の開設を目指したが、院長時代には実現できなかった。いまでは主だった病院にはホスピスがそろっているから、時代の先を見る力が吉永さんにはあったのだろう。
2001年労災病院を定年退職し、宮城県成人病予防協会会長などを歴任した。民間活動では、ホスピス運動(仙台ターミナルケアを考える会会長)、骨髄移植(宮城県骨髄バンク登録推進協議会会長)、腎臓病対策(日本臓器移植ネットワーク理事)、そして病院・施設ボランティア(仙台敬老奉仕会)がある。
ボランティアと施設の橋渡しで19年
2006年1月に友人3人でNPO法人仙台敬老奉仕会を始めてから2025年で19年になる。以前、学会でアメリカに行ったときに、病院ボランティアの現場を見て感じたことが、大きく影響した。
奉仕会はボランティアを必要している施設とボランティアを希望している人との橋渡しをしている団体だ。
「アメリカには市民はボランティアをするのが当たり前、施設はこれを受け入れるのが当たり前、そういうボランティア文化が根付いています。アメリカの高校では40時間のボランティアが授業科目になっています。このボランティア文化を日本の手本にしたい。日本のボランティアはコーラスや手品のような一過性の慰問のようなものが多く、日常的に散歩やおしゃべりするような心に寄り添うボランティアが少ない。一方ではボランティアをしたい市民がいる。他方では人手が足りなく忙しい施設がある。なぜ市民の手があるのにそれを活用しないのか」
それが奉仕会の活動の原点だ。
「ボランティアの文化を広めることが夢なんですよ」
奉仕会が発足してようやく3年目に1つの特別養護老人ホーム(特養)がボランティアを受け入れ、少しずつ増えていった。その後、12施設、ボランティア50人にまで広がったが、コロナ禍で急速に縮小した。その後、気仙沼市の特養が自力で始め、仙台市に隣接する富谷市の市長が理解を示して市をあげてスタートするなど、徐々に施設ボランティアが広がりを見せている。
「ボランティアは定期的に訪問して相手と知り合いになる。行くと相手が喜び、家族のような存在になる。心の介護を支えるボランティア文化を全国に広めることが夢なんですよ」
96歳のいまもボランティア育成に情熱を持ち続けている。
撮影:丹羽 諭
プロフィール
- 吉永 馨(よしなが かおる)
- PROFILE
1928年(昭和3年)9月18日栃木県・祖母井(うばがい)町(現・芳賀町)生まれ。10人きょうだいの9番目。東北大学医学部卒業後、同大学内科学教授、付属病院長、医学部長。定年退官後は東北労災病院長などを歴任。77歳のときNPO法人仙台敬老奉仕会を設立し、高齢者施設にボランティアを送るための養成・派遣する活動を続けている。その他、ホスピス運動、骨髄バンク、腎臓病対策などの民間団体に関わってきた。2022年に山上の光賞を受賞。著書に『老いも病もこわくない やすらぎの長寿考』(里文出版)、『日本にボランティア文化を』(CIMネット)など。
※役職・肩書きは取材当時(令和7年1月)のもの
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