いつも元気、いまも現役(現役看護師 池田きぬさん)
公開日:2019年10月10日 11時45分
更新日:2024年8月13日 14時31分
こちらの記事は下記より転載しました。
急変した入居者の一命をとりとめたことも
「こんな歳まで看護の仕事をするとは思っていませんでした」。訪問看護師の池田きぬさんの、95歳とは思えないてきぱきとした受け答えぶりに驚かされる。やや背中が曲がっているものの、大股で歩く速さは相当なもの。91歳まで50ccのバイクで自宅から通っていたが、「私、そそっかしいから事故を起こすかも」とバイクは止めて、勤務先のサービス付き高齢者向け住宅「いちしの里」に電車とバスで通うことにした。さすがに今は、姪の旦那さんの車で送り迎え。
翌朝早い勤務のときには空いている部屋に宿泊することもあった。介護の人が夜勤のとき、急変した入居者の容態についての対応の判断がつかなかったため、池田さんが代わりに判断して入居者を病院に送り一命をとりとめたこともあったという。実質的に"夜勤"のようなもの。
お会いした日は、朝7時半から夕方5時までの勤務。「通常は午後1時から5時の勤務ですが、看護シフトの関係で『人が足りない』といわれれば、朝にきます。朝くると入居者さんの食事介助ができていいんですよ」
「歳いったからと、あぐらかいたらいかんです。仕事するならきちんと動かな」
お世話できて幸せ お年寄りの痛みがわかります
いちしの里では、介護施設では受け入れを断られてしまう胃ろうの入居者もいる。池田さんは部屋に入るなり胃ろうチューブ交換の準備にとりかかり、真剣な表情できびきびと動き出した。看護職でなければできない医療行為は少なくない。
「勤務表を見て、手が足りないときには私が出るという癖がついています。時間外でも出てきてしまう。それも1つの役割かなあ。年齢も年齢だから、通常のシフトには入らず、足りないときは出ましょうというのが原則です」
いちしの里には約50人が暮らす。100歳の女性ともう1人の2人を除いてみな池田さんより年下だ。
「70、80歳の方でも寝たきりの方がいます。私は元気でお世話できるのは幸せです。お年寄りの痛みがよくわかります」
ここには登録看護師が約20人もいて、日中は5人態勢のシフトと潤沢だ。これも"池田さん人脈"で集まったベテラン看護師や柔軟で働きやすい環境づくりのおかげかもしれない。
看護要員として招集 傷病兵の手当に
池田さんは1924(大正13)年1月9日、三重県一志郡大井村(現在の津市一志町)で5人姉妹の末っ子として生まれた。父親を早く亡くし、母親の女手1つで育てられた。
1941(昭和16)年、地元の女学校を卒業。日赤の看護学校へ進み、19歳のとき、横須賀の海軍が管轄する海軍病院が療養所として接収した湯河原の旅館に、看護要員として召集された。この旅館は江戸時代から300年続く源泉・上野屋で、戦前、夏目漱石や芥川龍之介らが逗留した老舗旅館だ。
病院の看護に比べれば、この療養所は「療養の世話」が中心ののんびりした看護だった。それでも召集された看護要員は軍隊のように上下関係が厳しく、軍医の指示のもと、栄養失調で結核を患った傷病兵の食事の介助、銃で撃たれた兵士の腕から弾丸を取り除く手術にも携わった。
ここで「どんな状況下でも負けない精神力がついた」と池田さんはいう。
「今の看護学校の生徒が先生と友達のような口をきいていることなんて考えられない時代です」
そのときの同僚が集まる「湯河原会」は戦後しばらく続き、春と秋に旅行会があったという。しかし、1人2人と亡くなる人が相次ぎ、とうとう自然消滅となった。
「長生きするのはいいけれど、寂しいですね」
"職業婦人"として時代を先取り
終戦後、地元に戻り、5つ年上の男性とお見合い結婚。長男・次男を出産。夫の両親と妹たち8人の大家族。子育ては夫の母親に任せ、経済的理由もあって中部電力津支店の保健婦として勤務した。夜勤のある看護師より健康管理などをする保健師の方が、時間の束縛もなく子育てには向いていた。
「当時、一家に女は2人いらない」といわれていた時代だったが、それでも"職業婦人"に対しては、いろいろいう人は後を絶たなかった。
「今では働く女性はめずらしくないけれど、当時は"時代の先取り"をしていたようなものです」
職場のいいところだけ見る 人間修養になりました
その後、精神科病院の副総婦長を20年。「最初はどう患者さんに対応したらよいかわかりませんでした。教科書を読んで勉強しました」
このときストレス性の胆嚢炎を発症。手術で胆嚢を摘出した。「精神科病院の仕事は疲れますけれど、いい勉強になりました」
三重県庁を経て三重県看護協会役員、訪問看護や介護老人保健施設、グループホームなどの立ち上げにも関わった。
「保健師として働いていたときは、今でいうタイムカードなんてなく、出勤簿にハンコを押していました。出勤時間を1秒でも過ぎると、民間企業だからその出勤簿をしまってしまうのです。だから私は無遅刻無欠勤で通しました。ところが県庁の方はルーズというか、おおらかというか。ずいぶんと違うものでした」
「どんな職場でもいい面と悪い面があります。いいところだけを見ていかないと。いろいろ不満を持っていたら、気持ちは沈んでしまいます。いいところを見ると人間修養にもなります」
75歳でケアマネ試験に見事合格
75歳のときに三重県の最高年齢でケアマネジャー試験に2回目で合格した。
「1回目落ちたとき、これはいかんと。仕事辞めて半年間、勉強しようと思ったけれど、『仕事辞めて勉強するなら合格して当たり前』といわれるのが悔しいから、昼間看護の仕事をして、夜寝ずに勉強しました」という頑張り屋さん。
「資格はいくつ持っていても邪魔にはなりません。だから若い看護師さんにはケアマネの資格を、介護の方には介護福祉士の資格を取るように勧めています」
88歳のときに今のサービス付き高齢者向け住宅「いちしの里」に看護師として勤務。
「仕事を辞めようとすると、次の声がかかります」と、いろいろな職場を経験してきたことを振り返る。それだけに若い看護師さんが仕事をしやすくして定着してもらうように、職場環境をよくしたいという思いは強い。
2018年6月には、75歳以上の医療関係者に贈られる第4回「山上(さんじょう)の光(ひかり)賞」を長寿科学振興財団の祖父江逸郎理事長とともに受賞した。看護師は長く働ける職業であることを示した池田さんの功績は大きい。
22歳のひ孫が看護師に 今後が楽しみ
19年前に夫を亡くし、今は1人住まい。「なるべくまわりに迷惑をかけないように」と食事もご自身でつくっている。
朝5時から庭の芝刈りを30分するという。「バリカンのような芝刈り機を買って、以前は2、3時間刈っていたのですが、さすがに歳で、膝と腰が痛くなって。でも、近所の庭は芝が伸び放題で、それと比べればうちはきれいにしています」と笑う。
野菜も育てているという。「お好きな食べ物は?」と聞くと、「終戦直後の食糧難のことを思えば、なんでもおいしくいただいています」
近所に住む姪たちから時々、「こういうもの食べないと」と肉や魚料理の差し入れがあるという。「姪たちは本当によくしてくれます。かつて姉たちの面倒をみたことの"恩返し"かしら。ある程度のところで終止符を打って、そろそろ80歳で認知症になった姪の看護もしなくては」
東京にいる長男の孫である22歳のひ孫が看護師として働き出したことがなによりの楽しみだという。
撮影:丹羽 諭
(2019年10月発行エイジングアンドヘルスNo.91より転載)
プロフィール
- 池田きぬ(いけだきぬ)(三重県津市 現役看護師)
- 1924(大正13)年1月9日、三重県一志郡大井村(現在の津市一志町)で5人姉妹の末っ子として生まれる。1941(昭和16)年、地元の女学校を卒業。日赤看護学校へ進み、19歳のとき、海軍に療養所として接収された湯河原の旅館に看護要員として召集された。終戦後、地元に戻り結婚。長男・次男を出産。中部電力津支店の保健婦として勤務。その後、精神科病院の副総婦長を20年。県庁を経て三重県看護協会役員、訪問看護や介護老人保健施設、グループホームなどの立ち上げにも関わった。75歳、三重県最高年齢でケアマネジャー試験に合格。88歳のときに今のサービス付き高齢者向け住宅「いちしの里」に看護師として勤務。2018年6月、75歳以上の医療関係者に贈られる第4回「山上の光賞」を長寿科学振興財団の祖父江逸郎理事長とともに受賞。
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