健康長寿ネット

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いつも元気、いまも現役(理容師 箱石シツイさん)

公開日:2019年5月28日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時35分

和裁から理容の修行へ行く先々で人気者に

 「シツイさん」というお名前はめずらしいですねと尋ねると、75歳になった息子さんの英政(ひでまさ)さんの説明はこうだ。「どうも最初は静枝(しずえ)で出生届を出すつもりが、親の訛りがひどくて『シツイ』と言ってしまい、役場のほうも訛っていて『シツイ』と書いてしまったようです。ずいぶん大雑把な時代ですね」

写真1:箱石シツイさんの生後の写真。
生後32日目に母(中央)に抱かれるシツイさん

 箱石シツイさんは1916年(大正5年)11月10日、栃木県那須郡大内村(現・那須郡那珂川町、栃木県東北部)の農家に5人兄弟の4番目として生まれた。この村には小学校しかなく、5~6キロ先に中学校があったが、自転車に乗れないうえに体は小さくて通うのはとても無理。ある朝、親が「何か手に職をつけないと」と話している声が聞こえてきた。子どもだから「そんなものか」と思っていた。

 やがて近くに住む村長さんの御新造(ごしんぞ)さん(奥さん)が和裁を教えてくれることになった。そこで5年も和裁を習えば「手に職がつく」と思っていた。御新造さんにはとても可愛がってもらった。1年ほど経ったころ、近所の人が「東京に行って床屋さんの修行をしてみないか」と親に持ちかけてきた。そのころ、和裁といっても毎日、着物の糸をほどいて、洗って、板に伸ばして乾かすことの繰り返し。いつになったら和裁らしいことをさせてもらえるのかと感じていた。親がそれでいいというなら東京に行こうかと決心した。16歳のときだった。

 修行先は東京・向島区吾嬬町(あづままち)(現在の墨田区東部)の「オリオン」という店だった。店には床屋見習いに小学校の同級生の妹のサクちゃんがいて、「よくうちに来てくれた」と大歓迎された。先生は花王石鹸に勤める旦那の奥さん。弟子が4人もいた。年季は5年でお礼奉公が1年の計6年。そばが6銭の時代に月30銭のこづかいをくれて、とても可愛がられた。

 当時、理容業の所管は警察署。年に2回ほど衛生検査に来る。西洋カミソリを使う以前は日本刀を使っていたためだった。

 18歳になった1934年に理容師試験に合格した。当時、共同水道にご近所同士が集まって水を汲んだり洗濯していた。そこで知り合った3人兄弟の1人が「カミソリの真ん中を掘ると刃がよく砥げるんだ。あんた真面目だからやってあげる」と真ん中を掘ってくれた。そこで当時、木製だった電信柱に傷をつけてカミソリを砥いだ。もちろん電信柱に傷をつければ叱られるが、秋田出身のシゲちゃん、トミちゃんもみんな「齊藤(シツイさんの旧姓)さん」と慕ってきたので、みんなの分のカミソリも砥いであげた。シツイさんは人気者だったのだ。

写真2:仕事道具のはさみを4本もつ箱石シツイさん
ハサミは砥いで使い込むと大きさがずいぶん違ってくる

四谷見附の理容室が縁で結婚 2児を授かる

 四谷見附の「ライオン」という店に移っても、シツイさんは相も変わらない人気者だった。「シツイさんが来てくれてから、最初は旦那、次に奥さん、そして子どもと、お客さんが増えた」と店も喜んだ。

 そんなあるとき、常連のご隠居さんから「今度、私のうちに出張してくれないかしら」と頼まれた。店のマスターに聞いてみると「ああいいですよ」という返事。ご隠居さんの家に何度か出張しているうちに、「うちの甥っ子が床屋をやっているの。一度会ってくれませんか」と言われた。

 そのころ、シツイさんは開業のために貯金に励んでいた。開業には300円かかるが、なんとか200円まで貯めた。結婚の意思はまだなかった。

 そんなある日、出張に行ったご隠居さんの家に突然2つ年上の箱石二郎さんが現れた。第一印象は「常識もあり、丁寧な人」というもの。ご隠居さんから「本人も気に入ったようです。どうですか」と念を押された。シツイさんは「私のようなものでよいのなら」と結婚を承諾。二郎さん26歳、シツイさん24歳のときだった。

 新居兼理髪店は新宿・下落合。6か月間は2人で店を切り盛りした。やがて女性の弟子も入り、店が繁盛し出したころ、長女が麻疹(はしか)にかかり、次に小児麻痺で40度の熱に見舞われた。その後遺症はいまだに消えていない。

 理髪店は兵隊さんからは絶対にお金を受け取らない方針を貫いた。「お国のために明日はどうなるかわからないのにお金をいただくわけにはいきません」と言うと、兵隊さんは丁寧にお礼を言って去っていった。兵隊さん後ろ姿をじっと目で追った。

写真3:男性の髪の毛をカットする箱石シツイさん
メガネなしで手速くハサミと櫛を動かす

夫に召集令状 2日後の面会が最後に

 1943年(昭和18年)8月に長男・英政が誕生した直後の10月、二郎さんに召集令状が届いた。千葉・柏の東部38部隊に入隊となった。入隊翌日、面会のために殺人的に混んだ電車に揺られて柏まで行った。二郎さんは「子どもに会いたかった。のどがカラカラ」と訴えた。そこで近くの農家からまだ青いトマトを分けてもらい、それを夫に与えた。それが最後の別れとなった。

 その翌日、二郎さんは満州虎頭県へ向けて出征した。

 戦局はますます厳しいものとなり、日本国内も度重なる空襲にさらされ、箱石親子3人は故郷の栃木県那須郡那珂川への疎開を決めた。疎開の翌日、3月20日の東京大空襲で下落合の家は焼け落ちてしまった。まさに九死に一生を得た。

 1953年(昭和28年)に那珂川町に「理容ハコイシ」を開店。村の人口が今の倍以上あったので、理髪店は大いに繁盛した。まだ小さかった英政さんがつくる昼食をシツイさんは大急ぎでかき入れて仕事に舞い戻る生活が続いた。

 二郎さんの戦死が伝えられたのは、理容店を開店した同じ年のこと。ポツダム宣言を日本が受け入れて無条件降伏をした後、満州に侵攻してきたソ連軍か地元の住民によって殺害されたとみられるが、実際のところよくわからない。

 それよりも家族にとってつらかったのは、終戦後、「今日帰ってくるのでは」と待ちわびた8年間の長さだ。旧厚生省から渡された白い布に包まれた箱の"遺骨"を持って英政さんは車に乗った。カーブでよろめいたとき、箱の中からかすかに聞こえてきたのは、遺骨ではなく木片の音だった。

仕事着に袖を通した途端、背筋はピン、動きも3倍速

 「実際に散髪しているところを写真に撮りたい」という申し出に、シツイさんは「いいですよ」と言って、仕事場近くの居間の端に吊るしてあったクリーニング戻りの2枚のビニールがけの仕事着の1つを選んで袖を通した。すると不思議なことに背筋がピンと伸び、動作も急に速く2倍速、3倍速。

 ハサミを持つ右手と櫛を入れる左手が正確に裾の毛を切っていく。箱石さんの息遣いが首筋に伝わってくる。「右と左の毛の生え方が向かい合っているから、変わっていますね。私もそうだけど」と毛の生え方まで見ている。

 次に裾にカミソリを入れる。暖かい左手でしっかり頭をつかみ、右手でカミソリをあてる。すると英政さんがほうきと塵取りを持って手際よく落ちた毛を片づける。もう何十年と続けてきた自然な仕草だとわかる。

 座る椅子は右側のスプリングが弱くなって少し傾くが、十分機能は果たしている。床屋の椅子メーカーの人が来て、「もううちにはこんなに古い椅子はありません」と言ったとか。「椅子もハサミも鏡も、みんな私と同じで古いの」とシツイさん。

 朝6時半に起き、まずは自己流の体操を30分。「ここを30回押して、こっちも30回」。自己流とはいえ、なかなか理にかなった軽快な動きだ。椅子に座っていてちょいと足をテーブルに乗せる軽やかな柔らかさには驚く。「ちょっと失礼!」と足三里(あしさんり)のツボを押す。

写真4:自己流の体操を披露している箱石シツイさん
「ちょっと失礼!」とテーブルに足をヒョイと上げて自己流体操

 朝食は食パン8つに切って、ピーナツバター、きなこ、ヨーグルト、ココア、牛乳、コーヒー、昼食に野菜の煮物、ハム、ちくわ。お昼の残りをまた夕食に食べる。サラダ菜、トマトは隣の家庭農園で採れる。

 帰りに宇都宮の駅まで1時間以上かけて車で送ってくれた英政さんがこうつぶやいた。

 「101歳のおふくろと障がい者の姉が順番どおりにあの世に逝ってくれたらいいけれど、パーキンソン病を患った75歳の私が先に逝ってしまったら......。それだけが気がかりですね」

 「英(ひで)ちゃん」とシツイさんが息子の英政さんに話しかけると、英政さんはぶっきらぼうではなく、適当な距離感を持った言い方で応える。そうするとシツイさんは「ああ、そうかね」という。この繰り返しだ。いくつになっても母と子の関係は変わらない。

写真5:息子の英政さんと笑顔で写真に写る箱石シツイさん
母(シツイさん)と息子(英政さん)の関係はいくつになっても変わらない

撮影:丹羽 諭

(2018年10月発行エイジングアンドヘルスNo.87より転載)

プロフィール

インタビュアー:箱石シツイさん
箱石シツイ(はこいししつい)(栃木県那須郡那珂川町 理容師)
 1916年(大正5年)11月10日、栃木県那須郡大内村で農家の5人兄弟の4人目として生まれる。16歳で上京し、理髪店で働きながら理容師資格を取得。23歳のときに結婚して2児をもうけ、東京・下落合に新居と理髪店を開業。夫の二郎さんは1944年に召集され、旧満州で戦死。理髪店も1945年3月に実家に疎開した翌日の東京大空襲で焼失した。その後、2人の子どもを抱え故郷の栃木県那須郡那珂川町に戻り、1953年に「理容ハコイシ」を開店、65年間、営業を続けている。1人住まいで身の回りのことはすべて自分でこなす。常連のお客さんが来れば今でも店に出る。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.87(PDF:4.0MB)(新しいウィンドウが開きます)

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