いつも元気、いまも現役(料理研究家 小林まさるさん)
公開日:2023年1月13日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時12分
こちらの記事は下記より転載しました。
バンダナでシニア料理研究家に変身
東京にあるご自宅を訪ねた。家族が出払って小林まさるさんお1人で対応してくれた。料理スタジオを兼ねた明るく広いキッチンで中米ホンジュラス産のコーヒー豆をハンドドリップで淹れる。香り豊かなコーヒーでその場がいっきに和んだ。
大きな張りのある声ではきはきと応え、「趣味の木彫りの虎を見せてください」というと階段を2階に駆け上がる。「バンダナを見せてください」というとまた駆け上がる。あと数か月で90歳を迎える方とは思えない機敏な動きで活力が伝わってくる。
トレードマークのバンダナを締め、お気に入りのデニムのロングエプロンを付けるとシニア料理研究家・小林まさるに変身。「ある雑誌の写真でハゲがばっちり写ってしまったので、息子の嫁のアドバイスでバンダナをするようになった。つまりハゲ隠しです」と笑いをとる。
70歳で義理娘の料理アシスタントに
同居している息子の妻・まさみさんは、一般企業に勤めていたが、会社を辞めて調理師学校に通った後、料理愛好家の平野レミさんなどのアシスタントになった。
その後まさみさんが料理の本を出すことになって「アシスタントがほしい」というのを聞いて、まさるさんは「酔った勢いで『俺がやってやる』と、軽口をたたいたのが運のつき」と述懐する。まさるさん70歳のときに料理研究家の小林まさみさんのアシスタントになる。
妻が病弱だったため、2人の子どもの食事づくりをはじめ家事をこなしていたことから料理の心得はあった。母親が漁師の飯炊きの仕事でタラやサケを上手にさばくのを横で見ているのが好きで、魚をさばくのも自然に覚えた。
「まさみちゃんは先生、オレはアシスタント。アシスタントは将棋と同じで、先を読むことが基本。洗い物でもどこから先に洗うか順番を考える。たえず考えて先を読まないといけない」
76歳のとき雑誌で酒のつまみのレシピを連載した。年4回、1回5品の連載だ。これが好評となり、78歳で初めての料理本『まさるのつまみ』を出版した。81歳で2冊目の『小林まさるのカンタン!ごはん』を出版、さらに86歳で自伝『人生は、棚からぼたもち!』を出版。70歳を過ぎてから思ってもみないことの連続で、まさに「老いている場合ではなくなった」という。
ロシア人のワリチカが初恋の人
1933(昭和8)年4月22日、当時日本領だった樺太(現在のロシア連邦サハリン州)の中部・豊原町から25キロ離れた炭鉱がある川上村で生まれた。2男5女の長男で、父は炭鉱の機械の修理工だった。やがて太平洋戦争が始まったが、食糧不足も空襲もなかった。
ところがまさるさん12歳の1945年終戦直前の8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って樺太に侵攻。
15歳で北海道に引き揚げるまで3年間も留め置かれたのは、ソ連軍が接収した炭鉱の機械は日本製だったため、修理工だった父親を帰さなかったためだ。父親の同僚のロシア人の娘ワリチカとは同じ年の13歳のとき出会い、よく一緒につりに行った。ワリチカは170センチの身長、まさる少年は150センチ。それでも親しさは増して、「ワリチカが初恋の人」という。15歳の別れのとき、ワリチカは泣いていた。
"シングルファーザー"で子ども2人を育てる
15歳でようやく引き揚げた日本にはすさまじい飢えが待ち構えていた。「いまでもカボチャが嫌いなのは、カボチャばかり食べさせられたから。見るのもいや」という。引き揚げ先は炭鉱があった北海道美唄(びばい)。高校卒業後、家族を養うため不本意ながら炭鉱夫として働き始めた。「炭鉱は嫌いだったけど、当時給料がよく花形だったから」という。
27歳のとき西ドイツに3年間派遣された。「ドイツ魂を見てこい」という会社の要請を受けた留学のようなもの。30歳で日本に戻り、34歳で結婚して2人の子どもをもうけたが、2年後に離婚。"シングルファーザー"で子どもを育てた。初めは母親が子どもの面倒をみてくれたが、父親の入院の付き添いでそうもいかなくなり、2年後、別れた妻と再婚した。
炭鉱町は「いろいろうるさいので」と美唄を離れ、千葉の製鉄所に再就職した。妻は体が弱くて、入退院を繰り返していた。家でも伏せていることが多かったから、「オレが飯をつくっていた」と実質"シングルファーザー"は続いたという。57歳のときにとうとう妻を亡くした。
千葉にいた時代は、家一軒買えるくらいの金を持っていたが、酒と競馬で半分以上すってしまった。その後、60歳で定年をむかえた。
まさるさんの料理の特長
まさるさんの料理の特長は、どこでも手に入る材料で、さっと簡単にでき、調味料やスパイスなどをあまり多用せず、素材を活かすことを心がけ、ご飯やお酒に合うレシピというもの。
「男女を問わず、料理にあまり関心がなかったり苦手意識を持っている人が、オレのレシピをきっかけに、料理を始める気持ちになってくれたらうれしい」という。「とにかく、自分でつくるってことが大事」と強調する。
「まさみちゃんの料理は近代的。オレのは昔っぽい"おふくろの味"」と違いがあるようだ。
2021年に開設したYouTube「小林まさる88(はちはち)チャンネル」の冒頭は、自宅の2階から階段を降りてきて「小林まさるです。息子の嫁の小林まさみのアシスタントです」で始まる。まさみさんに対しては、「嫁の指示に従う、食材を無駄にしない、貸し借りはシビアに」をモットーにしているという。
家事全般をこなし脳トレと風呂体操
朝7時にスパッと起き、まずコーヒーを飲み、7時45分から掃除機で掃除、拭き掃除の「まさルンバ」、トイレ掃除と花や草木を飾り、ゴミ出し、洗濯、布団干しと家事全般をこなす。日本盲導犬協会から預かっているラブラドールのメスの繁殖犬ヴァトン5歳を連れて散歩を1時間。
それからリュックを背負って買い出しに出る。このとき「常に食材や調味料の組み合わせを考える」という。近くのスーパーで手に入らないものがあれば渋谷・新宿・青山と1人で出かける。
途中の道すがら意識して"脳トレ"に励む。表札を見ては同姓の過去の友人を思い出す「回想法」を実践。過ぎ行く車の4桁のナンバープレートを見ては花札の「おいちょかぶ」と、頭の体操が習慣づいている。「だから計算速いよ」と自信たっぷり。
料理の仕事は立ちっぱなしの体力仕事。「13時間、15時間やってもなんともない。少し足がむくむくらい。でも次の日は大丈夫」
その秘訣は50年以上続けている「風呂の中での入念な体操」という。「風呂の中では体が軽く動きやすい。15分くらいストレッチを毎日やっている。三日坊主にならないように、何ごとも"ついで"が長続きのコツ」という。夜9時には就寝。たっぷり10時間睡眠をとる。
嫌いな言葉は「年だから」と「今の若いもんは」
「『オレは年だから、料理はしない。台所仕事なんて恥ずかしい』と、年にかこつけて物事を諦めるのは、シニアが抱きがちな大きな過ちです。年だからやるべきなのです。もう1つ嫌い言葉は『今の若いもんはなっていない』。若い人についていけない、負けるのは当たり前のこと。年寄りは若い人を補佐するほうがいい。今の若い人は自分たちが若い頃よりずっと立派です」
最近の若い人は淡泊で諦めが早いのでは?という質問に、「若い人のそうした姿勢はそれなりに時代にそっている。何でもしがみついていたオレの時代とは違う。昔のようにしがみついていても仕方がない。どっちもどっちでそれなりの理由がある」ときっぱり。
「『ボケたなあ』と言われて怒る人がいるけど、オレは言われたら『ありがとう』と言う。自分ではわからないから教えてくれて『ありがとう』です。ボケてきたらメモをとるなりして、少しは防ぐことができます」と、とことん前向きだ。
「もうすぐ90歳だけど飲んべえの学校を始めようと思っている。年寄りを集めて、オレが酒のさかなの料理を教えて、みんなで飲む学校だ。ワクワクドキドキがいちばんの長生きの秘訣。人生100年時代、やりたいことをどんどんやらなければ」
撮影:丹羽 諭
プロフィール
- 小林 まさる(こばやし まさる)
- PROFILE
1933(昭和8)年4月22日、樺太で7人きょうだいの長男として生まれる。父親は炭鉱機械の技術者。川上村(現ロシア連邦サハリン州)で育つ。終戦後の1947年、15歳でようやく引き揚げ、北海道美唄(びばい)で暮らす。高校卒業後、炭鉱夫として働き、27歳のとき西ドイツに3年間滞在。妻が病弱なため幼い子ども2人の食事づくりなどをこなし、57歳で妻を亡くした。定年退職後、息子夫婦と同居し、70歳のとき息子の妻・小林まさみさんのアシスタントとなり、自身も料理研究家としてデビュー。78歳で『まさるのつまみ』(主婦の友社)を出版。続けて『小林まさるのカンタン!ごはん』(KADOKAWA)、『人生は、棚からぼたもち!』(東洋経済新報社)を出版。YouTube を配信中。
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