いつも元気、いまも現役(パラリンピック育ての親 藤原進一郎さん)
公開日:2020年8月 6日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時27分
こちらの記事は下記より転載しました。
思い出のつまった館長室で穏やかな表情でゆったりと
大阪市長居(ながい)障がい者スポーツセンターの小山直幸館長の部屋に藤原進一郎さんは現れた。174cmの長身で、なかなかのダンディぶり。つい最近、杖を使うようになったという藤原さんは、間もなく88歳を迎える方には見えないほど矍鑠(かくしゃく)としている。穏やかな表情で、ゆったりとインタビューに応じてくれた。
「私がここに来たとき、小山君はまだ大学4年生だったね」と言うと、小山館長は「昨年(2019年)11月、藤原先生が文化功労者に選ばれて、私たちはうれしくてうれしくて、ぜひお祝いの会をしようとしたのですが、このコロナ騒ぎでのびのびになってしまいました」
センター業務で、あわただしい中での取材であった。
母の涙で大阪行きを断念し岡山大学へ進学
藤原さんは兄、姉、妹の4人兄弟の次男坊だ。祖父が3人目の孫だから「孫三郎」と名づけようとしたが、「いくらなんでもそれは可哀そう」と、父親は次男なのに「進一郎」と名づけた。
岡山県邑久(おく)郡幸島村(現・岡山市東区)で薬剤師である父と薬種商を営む母のもとで育った。旭川と吉井川が注ぐ児島湾のすぐ近くで、少年時代は浅瀬でハゼを獲っては干物にして食べたという。
終戦を迎えた1945年に隣町の岡山県立西大寺中学に入り、6年後に卒業すると、「早く自立したい」という思いから大阪・日本橋(にっぽんばし)にあった鼻緒屋に就職を決めた。大阪に出発する直前、病弱で入院中だった母親にこのことを打ち明けると、母親は病院のベッドで「私の病気のせいで」と涙した。
これに心動かされた藤原さんは大阪行きを断念。1951年岡山大学教育学部中等二年課程に進学することを決めた。2年後、保健体育科高等学校仮免許、中学校2級普通免許を取得して、中学の教員をめざして大阪に行くこととなった。この時、母親は黙って見送ってくれたという。
真っ白な壁に絵をと口説かれ障がい者スポーツの世界に
大阪に行って、大阪市立豊崎中学で保健体育の教員が7年、スポーツの強豪校である平野中学に9年、大池中学に5年と計21年教員生活が続いた。この間につちかった対外的な人脈がその後の障がい者スポーツの振興に大いに役立つこととなる。
なぜ中学の教員を辞めたのか。
「私は41歳になったばかりでした。教師の仕事が嫌になったということはなかったんです。ただし、40歳を過ぎると、学校の中では、やれ教頭の職がどうだとか、そういう話も出てきます。ところが私は、そういう類いの話には関心がなかったのです」
この時に初代館長の澤賢次さんからこう口説かれた。
「辞めて来いや。福祉については俺が長年役所でやってきたので任せてくれ。医療サイドについてはドクターに引き受けてもらえる。君にはスポーツのことを頼みたい。真っ白な壁にお前の好きなように絵を描いてくれ」
1974年に大阪市民生局に移り、ここから出向の形で大阪市身体障害者スポーツセンター(現・大阪市長居障がい者スポーツセンター)に指導課長として赴任した。
障がい者を「お客さん」と呼ぶ これを"危険思想"と言われ
藤原さんは日本で最初となる身体障がい者スポーツセンターの運営を成功させ、その後、全国各地につくられた施設運営の手本を示した。いわば日本の障がい者スポーツの先駆者のひとりだ。
障がい者イコール「患者」、障がい者スポーツイコール「リハビリ」と言われることが多かった1970年代に、施設利用者を「お客さん」として対応して、リハビリではなく「楽しみ」「競技」としての障がい者スポーツの考え方を打ち出した。
「ここに来る障がい者は、なんとなく来てみた、何か面白いことがあるかなという人が主です。それまで障がい者を"患者""訓練生"と呼んでいたので、"お客さん"と呼ぶのは異質なことでした。これを"危険思想"と言われたこともありました。また、理学療法士、作業療法士には白衣は着させませんでした」
スポーツの振興には、組織化(仲間づくり)の強化、指導者の充実、施設の整備、行事(競技会)などの充実や、それに伴う財源の確保などが挙げられる。
そこで、藤原さんは日頃スポーツに接することの少なかった障がいのある人たちにスポーツ教室を開設し、1人ででもスポーツに親しむことができるようにするとともに、こうした機会を通して仲間づくりを進めていった。これがスポーツクラブの基礎となり、やがて全国組織にも発展していった。
また、例えばバレーボールでは、男子と女子ではボールの大きさや重さ、コートの大きさやネットの高さなどが違うように、ルールはゲームを楽しくするための負荷である。このことが理解できれば、誰でも障がいのある人たちのスポーツと抵抗なく交流できるようになり、健常者とも一緒にスポーツに親しむことができるようになる。このことが、障がい者スポーツ発展の大きな原動力となった。
パラリンピックで遠征の数々 総監督・団長を務める
藤原さんがパラリンピックに関わるようになったのは1980年のオランダ・アーネムでの第6回パラリンピックの日本選手団コーチを務めてからだ。1984年アメリカ・ニューヨークの第7回パラリンピックでは監督を、1988年韓国・ソウルの第8回では総監督、1992年スペイン・バルセロナの第9回では監督、1996年アメリカ・アトランタの第10回では総監督、1998年長野パラリンピック(冬季大会)では総監督、2000年オーストラリア・シドニーの第11回では日本選手団長を務め、計41個のメダルを獲得した。
このように藤原さんは日本のパラリンピックの中心的存在として役割を果たしてきた。
「いやあ、中村裕先生(大分の整形外科医で日本パラリンピックの父と呼ばれた)や初山泰弘先生(元国立身体障害者リハビリテーションセンター総長)がお亡くなりになり、もし元気でいらしたら、私には(文化功労者)は来なかったでしょう」と謙遜する。
身近なところでは、NHKの「みんなの体操」でいすに座って体操しているが、あれは藤原さんが監修者の1人になっている。
1960年ローマオリンピックからパラリンピックが始まった
そもそもパラリンピックの歴史はそう古くはない。1948年のロンドンオリンピックに合わせてイギリスのストーク・マンデビル病院で始まったアーチェリーの競技大会にさかのぼる。第二次世界大戦で負傷した兵士たちに「手術よりスポーツを」と、リハビリをねたものだった。ドイツから亡命したユダヤ系医師のルードリッヒ・グットマンが提唱したものだ。その後、第1回パラリンピックとなるのは、1960年のローマオリンピックと合わせての開催からだ。
今年開催予定だった東京オリンピック後に行われるパラリンピックでは、バドミントンとテコンドーが加わり、合計22種の競技が行われるはずだった。そうした選手を生み出すには、当然、国内の障がい者スポーツの層の厚さ、場や指導者などがそろっていなければ成り立たない。
そうした流れを生み出した藤原さんの功績は大きい。それが昨年の文化功労者に選ばれた理由だろう。
力まず飄々(ひょうひょう) 自然体で生活を楽しむ
最近は朝7時に起きて近所を700m散歩する。そして何種かの体操をしてから朝食を摂る。その順番は逆になることもある。お腹がすいたら食事をし、眠くなったら寝る。あとはぼんやり。
「好きな食べ物は?」の質問に、「食料が不自由な頃に育ったから、好きも嫌いもありません。白いご飯に大麦を混ぜ、やがて小麦を混ぜて食べました。褐色になったご飯ばかりを食べていました。それを嫌いといったら食べるものがありませんでした」
お酒は最近は飲んでいない。「酒に強いというほど強くはないし、弱いというほど弱くもない」
間もなく88歳を迎える今、力まず飄々と自然体で生活を楽しんでいる。
撮影:丹羽 諭
(2020年7月発行エイジングアンドヘルスNo.94より転載)
プロフィール
- 藤原進一郎(ふじわらしんいちろう)
- 1932年8月13日、岡山県邑久郡(現・岡山市東区)生まれ。父は薬剤師で薬屋を経営していた。隣町の岡山県立西大寺中学を卒業、1953年岡山大学教育学部を卒業後、保健体育の教員として大阪市立豊崎中学、平野中学、大池中学で計21年、1974年から大阪市身体障害者スポーツセンター(現・大阪市長居(ながい)障がい者スポーツセンター)の指導課長。その後、日本障害者スポーツ協会技術委員長、極東・南太平洋障害者スポーツ連盟競技委員長などを歴任。2000年シドニーパラリンピックでは日本選手団長を務め、計41個のメダルを獲得した。2019年度文化功労者。
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