いつも元気、いまも現役(映画字幕翻訳者 戸田奈津子さん)
公開日:2024年5月 1日 09時00分
更新日:2024年8月13日 13時54分
こちらの記事は下記より転載しました。
1,500本こなす映画字幕の第一人者
白いタートルネックセーターにモノトーンのスカーフを肩に巻いて颯爽と現れた。ふくよかな顔立ちで、お肌の色つやもいい。話はテンポよく、質問に反応速くシャキシャキとお話をされる。年間50本の映画字幕翻訳をこなし、通算1,500本になる日本の字幕翻訳の第一人者、戸田奈津子さんだ。「年52週だから1週間に1本のペース。最近はコロナのせいでアメリカからの映画はずいぶん減ってしまいました」
これまで字幕翻訳と通訳の二足のわらじを続けてきたが、2022年に『トップガン マーヴェリック』主演のトム・クルーズが来日する1か月前、30年間、通訳と字幕翻訳を担当してきた戸田さんは、「通訳」のみ引退を表明した。
というのは「年をとると言葉がとっさに出てこなくなり、一生懸命に話している映画スターに申し訳ないから」が理由。トム・クルーズは大変残念がったが、納得してもらったという。
ハリウッドスターとの華麗な交流
「通訳は私の望んだ仕事ではないから未練はありません。字幕翻訳が本業だから」ときっぱり。しかし、「通訳」の仕事があればこそハリウッドスターとの華麗な交流ができたのも確かなこと。記者会見などの席での通訳は辞したものの、ハリウッドスターとの個人的な交流は続いている。
「先週は映画『アマデウス』(1984年)でサリエリ役を演じてアカデミー主演男優賞となったF・マーリー・エイブラハムと1週間京都を旅行して、奥嵯峨の400年続く老舗料亭で食事しました」と楽しげに語る。
「以前トム・クルーズと元妻のニコール・キッドマンが来日したとき、トムより身長が高いことを気にしてか、ニコールがハイヒールを脱いで手にぶら下げてホテルの廊下を歩いていました」とリアルな光景を思い出す。
映画『第三の男』を50回観てセリフを覚える
戸田さんは1936(昭和11)年7月3日、福岡県戸畑市(現北九州市戸畑区)で生まれた。夏に生まれたので「夏子」としようとしたが、それでは味気ないと「奈津子」と命名された。銀行員だった父は翌年に召集され、上海郊外で戦死。戸田さん1歳のときだ。22歳の母と東京・世田谷の実家に移り住むことになった。
その後、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の2年で教員資格を取れる養成所に母は入学。戸田さんはその敷地にあった附属幼稚園に入り、小学校に進んだ。
1945年3月10日の東京大空襲で家は焼失を免れたが、急きょ父の実家である愛媛県西条市に疎開。間もなく終戦を迎え、世田谷の家に戻り、お茶の水女子大学附属中学に進んだ。附属高校の頃、映画『第三の男』に夢中になり、50回ほど観て、頭の中はDVD状態だった。
その後、津田塾大学英文科に進み、卒業後、映画字幕翻訳家を目指すが、ツテもなく、丸の内の第一生命の秘書課に入って英文翻訳などの仕事につく。ところが、退屈な仕事に飽きて2年弱で辞め、フリーターになった。その後、英文執筆、翻訳の仕事は途切れることはなく、「経済的には困らなかった」という。
苦節20年で映画字幕にデビュー
日本版字幕のベテラン清水俊二氏の住所を電話帳で調べ、字幕の世界の話を伺う。清水氏と夫人の間には子どもがなく、「娘」を自称する若い女の子たちが、いつも大勢出入りしていた。
東京公演のたびに20人くらいで夜中に押しかけてくる宝塚歌劇団の"生徒"たち、映画関係の女性たち、映画記者から作家の道を歩みはじめた向田邦子さんもいた。戸田さんも"疑似娘"に連なって、清水夫妻にかわいがってもらうようになった。
戸田さん30歳のとき、清水氏に紹介され、「007」シリーズをヒットさせたユナイト映画の宣伝総支配人、水野晴郎さんからの依頼で来日する映画人の通訳を引き受けた。
「通訳にはぜんぜん興味はないし、しゃべったこともないけど、水野さんから『やれ』と言われて、断ると字幕の仕事が回ってこないから」。こうして"通訳デビュー"となった。字幕翻訳より先だ。
字幕翻訳は、1970年公開のフランソワ・トリュフォー監督の『野生の少年』が初めて。男性ばかりの字幕翻訳の世界。女性の戸田さんに仕事はなかなか回ってこなかった。
本格的に字幕翻訳者としてデビューを飾るのは、43歳のときフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』だ。コッポラ監督がフィリピンでの撮影の合間に来日した際の通訳をした戸田さんを気に入り、コッポラの推薦で字幕翻訳を担当することとなった。実に苦節20年のウェイティングだった。
日本の字幕はタイミング・読みやすさで世界一
外国では、母国語以外の映画はほとんど吹き替えて上映される。日本では子ども向け映画を除いて字幕が主流を占めていた。その結果、日本の字幕技術はタイミングの正確さ、読みやすさでは"世界一"という。
外国では字幕はあっても、セリフが終わっているのに字幕が画面に残っていたり、セリフが聞こえていても字幕が消えてしまったりと「まったくずさんなもので、その場のドラマ性が損なわれること大」と戸田さんは言う。
日本で初めて字幕つきの映画が登場したのは昭和初期。1931年封切のゲーリー・クーパー、マレーネ・デートリッヒ主演の『モロッコ』などだった。それまでは弁士のつく無声映画で、場面と場面の間に文字のセリフや説明の画面が挟まる。これが「字幕」というものの原形だ。
目で字を読むスピードはセリフを耳で聞くスピードのおおよそ3分の1ということを前提に、1秒3、4文字という基本文字数の制約が確立。当時の日本語は横書きでなく、縦書きが普通で、またスクリーンのサイズも今と異なったので、字幕は縦書きで1行10文字だった。その後、スクリーンは大きく、横長になったので、映画館のどこからでも読みやすい、下横、1行13文字とレイアウトが定着した。
字幕は厳しい字数制約があるので直訳ではなく、画面とピッタリ息の合った意訳脚本がほとんどである。
かつてはよかった翻訳料金で家が建った
映画が現在のようにデジタルでなく、まだフィルムだった時代は、フィルム1巻いくらという単価が決められていた。つまり上映時間はせいぜい1時間40分という短さなのに、3時間分のセリフが詰めこまれているウディ・アレンの映画であろうと、セリフはひと言、「Me, Tarzan, You, Jane」(ボク、ターザン。君、ジェーン)だけというターザン映画でも、翻訳料はセリフの量に関係ないのだ。
昭和30年ごろ、1巻当たりの翻訳料はベテランで5,000~6,000円程度だったそうだ。1時間40分の映画はだいたい10巻あるので、1本の翻訳料は5万~6万円。新入社員の初任給が1万2,000円程度だったときで、その4、5倍が翻訳料の相場だった。「だから当時の翻訳者はみな立派な家を建てていた。現在の翻訳者には"夢"です」と戸田さんは笑う。
現在は、上映分数10分でいくらという方式になった。「この10年くらい1,000円も上がっていません。相手は弁護士でがっちり固めているアメリカの映画会社ですから、海を超えての値上げ闘争などとてもムリ。私は好きでしている仕事で、お金目当てではないので、我慢してますけど......」
配信映画の字幕は字数が多くて読めないという声に、戸田さんは「どんどん文句を言ってください。日本のお客さんはやさしくて、読み切れないのは自分が悪いと思ってしまうから」
字幕は必ず残るし、仕事は続けます
「20世紀と21世紀とで映画は大きく変わりました。CG技術が入ったことや配信ものが増え、興行方式も変わってきました。私はいい時代の映画に関われたことが幸せでした。吹替えは製作費がかかるので劇場では大作だけになりがちですが、予算の限られたアート系映画、また字幕派ファンのためにも字幕は今後も存在しつづけると思います。ですが、スマホを始めとするデバイスの普及で、最近の若い方々には文字離れ、文章の読解力に問題があるように見うけられます。映画字幕だけの話ではなく、美しい日本語の将来を憂いたくなるのは私だけでしょうか......」
「映画はすばらしい娯楽メディアです。ドラマを演じるキャラクターそれぞれの気持ちになって、字幕をつくる、こんな楽しい仕事はありません。この道を選んで悔いはありません」と弾む声で笑った。
撮影:丹羽 諭
プロフィール
- 戸田 奈津子(とだ なつこ)
- PROFILE
1936(昭和11)年7月3日福岡県戸畑市(現北九州市戸畑区)で生まれる。父は翌年に召集され、中国で戦死。母と東京・世田谷の実家に移り住む。その後、母が入学した東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の教員資格養成所の敷地にあった附属幼稚園に入り、お茶の水女子大学附属小学校・中学・高校に進む。津田塾大学英文科卒業後、第一生命の秘書課で英文翻訳などの仕事につくも2年弱で辞めフリーターに。字幕翻訳者として本格的にデビューを飾るのは、43歳のときフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』。その後、年間50本、通算1,500本の字幕翻訳をこなして日本の第一人者となる。最近はトム・クルーズ主演『トップガン マーヴェリック』、『ミッション:インポッシブル/デッドレコニングPART ONE』などで字幕翻訳を担当した。
※役職・肩書きは取材当時(令和6年2月5日)のもの
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