社会とともに深化する医学・医療(齋藤 英彦)
公開日:2019年7月26日 09時00分
更新日:2024年8月13日 15時26分
こちらの記事は下記より転載しました。
シリーズ第27回生き生きとした心豊かな長寿社会の構築をめざして
わが国がこれから超長寿社会を迎えるに当たり、長寿科学はどのような視点で進んでいくことが重要であるかについて考える、シリーズ「生き生きとした心豊かな長寿社会の構築をめざして」と題した各界のキーパーソンと祖父逸郎・公益財団法人長寿科学振興財団理事長との対談の第27回は、齋藤英彦・名古屋大学名誉教授、国立病院機構名古屋医療センター名誉院長をお招きしました。
4年に1度の日本医学会総会今年は名古屋で開催
祖父江:今号の対談には、名古屋大学名誉教授の齋藤英彦先生をお迎えしました。齋藤先生は血液内科がご専門です。
齋藤:私が祖父江先生の後任として佐賀医科大学から名古屋大学内科学第一講座教授として着任したのは、35年前の昭和59(1984)年の10月のことです。
祖父江:昭和59年に私は名古屋大学を定年・退官したのですね。もう35年になりますか。早いものですね。
齋藤:ええ。それ以来、先生の背中を見ながら歩んできました。今日はどうぞよろしくお願いいたします。
祖父江:齋藤先生は「第30回日本医学会総会2019中部」の会頭を務められました。今年の医学会総会は、名古屋で4月27〜29日まで開催されました。今回が第30回で、4年ごとに開催されているので、120年の歴史があるということですね。
齋藤:日本医学会総会は明治35(1902)年以来、4年に1回開催しています。120年という歴史がありますから、一番といっていいほどの長寿の学会です。30回のうち15回は東京で開催されました。あとの15回は京都、名古屋、大阪での開催で、福岡では1回だけ開催しています。名古屋での開催は、昭和42(1967)年と平成7(1995)年に続き、今年で3回目です。
日本医学会総会は、日本医学会が日本医師会の協力のもと学術と実践の両面から、医学・医療の重要課題を取り上げる学術集会です。このように基礎医学から社会医学、臨床医学にわたり医学・医療全体を幅広く網羅する学術集会は外国には例がなく、わが国独自のものといえます。近年は医師や医学研究者以外にも、一般の方々を対象にした展示や講演会を多く開催していて、医学や医療、介護の現状を知ってもらうよい機会となっています。
今回は120周年と平成最後の医学会総会ということで、準備にあたり中部8県の医科大学と県医師会のオール中部体制で臨みました。愛知県、静岡県、三重県、岐阜県、長野県、福井県、石川県、富山県と日本列島を日本海側から太平洋側まで横断する学会をめざしました。1年前から各県で順番にプレシンポジウムを開催し、約3,000名の参加者がありました。
祖父江:日本医学会総会は、医学界と社会を橋渡しする学会ということですね。一般の方々にも今の医学界が抱えている問題を広く発信していくことは大切です。今回の総会についてお話しいただけますか。
齋藤:今回の総会のメインテーマは「医学・医療の深化と広がり~健康長寿社会の実現をめざして~」としました。健康長寿社会を医学と医療の努力により実現したいという思いを込めています。そして4本の柱を立てました。
柱の1は、「医学と医療の新展開」です。先進的な、たとえば人工知能やロボットとか再生医療、遺伝子医療などについて話し合う場としました。がんの診断・治療にゲノム医療の保険収載の可能性やロボットによる介護支援が現実のものとなりつつあります。ゲノム編集などの革新的技術の医療への応用は、これまで治療の困難であった難病に対して期待されます。一方、これまでの常識や生命倫理が追いつかなくなる懸念があります。ゲノム編集は人間を改造する試みです。120年の歴史を有する医学会総会の中でも、今ほど大きなパラダイムシフトが起こっている時代はないと思います。
祖父江:この数年間の新しい技術の発展は目覚ましいですね。しかも人間の本質をも改変する危険性のあるものもありますね。特に受精卵や生殖細胞のゲノム編集は次世代へ伝わるので心配です。社会のコンセンサスなしには進めることはできませんね。
齋藤:柱の2は、「社会とともに生きる医療」。少子高齢化が進む中で、医療介護システムの持続可能性について議論がますます必要です。高額な医薬品、医療機器が増えていることから財政面でも、また働き手が減少することからマンパワーの面でも、医療・介護制度は危機に瀕しています。さらに医師の診療科および地域による偏在により医療提供制度の平等性、公平性が維持できない恐れがあります。
柱の3は、「医療人の教育と生き方」。特に、勤務医の過労についてです。医師は勤務時間が非常に長いです。時間外労働の上限が1年に1,900~2,000時間です。他の分野のサラリーマンは時間外労働すべてを含めて2,000時間くらいです。医師は時間外労働だけで2,000時間働くということは、他の分野に比べて2倍働くということです。これではどう考えても体が持ちませんし長続きしません。適正な救急受診をするように社会の理解を求めたいと思います。女性医師やシニア医師が仕事のできるような環境整備が必要です。
祖父江:勤務時間が長いのが医療現場の特色ですね。時間外労働を禁止すると患者の生命に関わるので、われわれの時代は徹夜で患者を診ることもありました。主治医が現場を離れるわけにはいかなかったのです。
齋藤:今はひとつの案として、複数主治医制があります。これには社会の理解といいますか、患者さんやご家族の協力が得られないと実践はむずかしいですね。
そして柱の4は、「グローバル化する日本の医療」です。昨年1年間で3,000万人の外国人が来日しました。アジアからは約2,500万人を超えています。
祖父江:3,000万人とはすごい数ですね。
齋藤:ええ。したがって、国際感染症や麻薬など、国際間のいろいろな問題があります。また日本の医療の国際貢献が問われる時代となりました。われわれの意図としては、日本の優れた国民皆保険制度や介護保険制度をもっと世界に知ってもらいたい。同時に国民の方たちにも改めて国民皆保険制度のすばらしさを認識してもらいたいという気持ちを込めました。また、世界有数の長寿国である日本の経験とノウハウは、これから高齢化が急速に進みつつあるアジアの国々の参考になると思います。
祖父江:過去の医学会総会では国際化の問題はあまり取り上げられてこなかったと思います。この柱は今回の総会の目玉のひとつですね。
高額な再生医療や遺伝子治療安価に提供することが望まれる
祖父江:外国の方には日本の国民皆保険制度のよさが伝わらないようですね。日本ではこの制度に守られている安心感があるのです。
齋藤:おっしゃるとおりです。つい最近、がんの免疫療法の「カーティー(CAR-T)細胞療法」が一部の白血病などの治療法として保険適用されました。1回の治療費が3,000万円以上とかなり高額ですが、日本には高額療養費制度がありますので、一定程度の負担で収まります。しかし、高額療養費制度をたくさん適用すると、医療保険体制がパンクしてしまいます。
祖父江:特に最近話題にあげられる再生医療や遺伝子治療などは並外れて医療費が高いですね。ある特殊なケースだけに保険承認して、国の莫大なお金を投入するわけにはいきません。
齋藤:公平性の問題がありますね。
祖父江:しかし保険外診療となると、自己負担額の問題が出てきます。いい治療であっても年間何千万円がかかるとなると、よほど経済的に余裕のある人でないかぎり個人で負担するのはむずかしいです。今後、再生医療や遺伝子治療はもう少し安くなる見通しはあるのでしょうか。
齋藤:遺伝子治療の詳細はわかりかねますが、2年前に神戸で行ったiPS細胞を用いた再生医療の加齢黄斑変性の治療には約1億円かかりました。それではとても一般に普及できないので、京都大学などでもっと安く提供できるよういろいろな工夫をしています。
祖父江:加齢黄斑変性は高齢者に多い病気ですね。失明の原因にもなりますから、iPS細胞治療による根本治療に期待したいですね。今、再生医療で保険診療が承認されているものはどのくらいあるのですか。「ハートシート」という心筋の再生医療がありましたね。
齋藤:再生医療で保険診療が承認されているのは、現在5種類あります。1.やけどに対する皮膚、2.軟骨損傷に対する軟骨、3.脊髄損傷に対する間葉系幹細胞、4.骨髄移植の合併症GVHD(移植片対宿主病(いしょくへんたいしゅくしゅびょう))に対する間葉系幹細胞、5.心不全に対する心筋の再生医療です。
心筋の再生医療は、重症の心不全の患者に対して、患者自身の下肢の骨格筋を一部取り、骨格筋芽細胞を増やしてシートにして患者の心臓の表面に貼りつけるものです。心臓はなかなかむずかしくて、心臓は収縮するときにシートも一緒に同期しないと困ります。もうひとつ、貼りつけた細胞はひと月経てばなくなります。作用機序は貼りつけている間に心筋がいろいろなサイトカイン、ホルモン、栄養因子を出して、もともとある心筋の障害した部分の再生を助けるのです。ですから一種の膏薬的(こうやくてき)なもので、心筋細胞を置き換えるものではありません。
真の再生医療といえば、骨髄移植がそれに当たります。たとえば10代の子どもに骨髄移植をしますと、その子どもが50歳になっても、ドナーの血液の造血幹細胞が40年後も生きて赤血球や白血球をつくり続けます。これは完全なる再生医療といえます。これまでにわが国で骨髄移植と臍帯血(さいたいけつ)移植を合わせて4万例以上の造血幹細胞移植が行われました。まさに再生医療のフロントランナーと言っても過言ではないと思います。
祖父江:骨髄移植は再生医療の先駆けということですね。ドナーを集めるのが大変と聞きますが、そのあたりはいかがでしょうか。
齋藤:そうですね。骨髄移植の場合はHLAといって白血球の型で合わせるのですが、ドナーが見つかりやすい人となかなか見つからない人が当然あります。ただ日本人は比較的HLAの型が似ていて、今日本に47万人ほどのドナーが登録していますが、日本人の96%の人に適合者1人は見つかります。アメリカは人口が日本の倍ですが、ドナーバンク登録者数は800万人。いろいろな人種がいるので、たくさんそろえておかないと適合しないのです。日本人のほうが小さいプールで供給できるということです。
祖父江:コンピュータ技術でどうにかならないでしょうか。
齋藤:日赤本社のコンピュータには47万人のデータが入っています。たとえば骨髄移植を受けたい患者がいて、その人のHLAを調べて適合者を探しますと、何百人とマッチする人は出てきます。ところが、実際に移植までたどりつくのはその中のごくわずかです。というのは、これは第三者の善意と自主性に基づく医療なので、たとえば今仕事が忙しい、登録したときは独身だったが結婚したら奥さんが反対している、女性ならば妊娠中であるなど、ドナーになり得ない時期がありますから、そこが一番むずかしいところです。
ドナーとともに家族の承諾を必須としているのは日本だけです。現在の47万人のドナーの年齢の中央値は40~41歳です。この年齢になるとHLAが適合しても血液検査で肝機能の軽度障害、血糖値が少し高いなどが見つかることがしばしばあります。そうするとその人はドナーとして合格しません。骨髄バンクはドナーの安全を第一に運営しています。
祖父江:その他、特別講演はどのようなものでしたか?
齋藤:3名のノーベル賞受賞者による講演がありました。まず、青色発光ダイオードで受賞した天野浩・名古屋大学教授、それからがん免疫療法の本庶佑・京都大学特別教授、そしてiPS細胞の山中伸弥・京都大学教授です。3名がそろうのは初めてだったと思います。
遺伝子治療を取り巻く状況は抗結核剤が出てきた戦後に似ている
祖父江:最近では遺伝子医療が進んできて、個別化治療が進んできました。先日の新聞によると、遺伝子治療は1人5,000万円かかるといいます。これでは一般の人には高嶺(たかね)の花です。これからどう発展させるか。戦後、抗生物質が出てきた頃とよく似ています。
齋藤:戦後、昭和20年代にストレプトマイシン(抗生物質のひとつ)が出回って結核が不治の病でなくなりましたね。まだその頃は国民皆保険ではなかったですが、ストレプトマイシンは高価だったのでしょうか。
祖父江:高かったですね。入院患者の中で裕福な人だけが高価な抗結核剤を購入して飲んでいました。国民皆保険のない時代、治療費はすべて自己負担です。抗結核剤はいろいろな種類が出回って、裕福な人たちはその中からよく効くものを選んで手に入れていました。しかし、薬を止めると再発するため、一生涯飲み続けなければならない。抗結核剤の闇ルートがあって、そこから薬を手に入れるという時代もあったのです。抗結核剤が出てきた戦後はそんな問題もありました。
今の遺伝子治療はそれに近い状況になっています。やはり低廉な治療費にならないかぎり遺伝子治療は普及しないと思います。今は発展途上の時代ですね。一部の裕福な人しか受けられない医療というのは一般化しません。製薬会社もそんなに高いもの、需要がないものには開発に手を出しませんから。
齋藤:そういう意味では、希少難病の薬もなかなか市場は小さいですから、企業としては手を出しにくいですね。
日本の難病対策は世界一スモン研究がその道筋をつくった
齋藤:日本の難病対策は世界的にも非常に進んでいると思います。今回の医学会総会では、公益財団法人難病医学研究財団と共催で難病シンポジウムを開きました。そこに日本だけでなくアメリカやヨーロッパなどの難病の関係者にも来てもらい、ディスカッションをしました。日本の難病対策は昔からかなり進んでいることを厚労省がアピールしたいということで、ぜひ一緒にやりましょうとなったのです。
祖父江:外国の人からみると、日本の難病対策にはびっくりするらしいですね。日本の難病対策は世界一といえるでしょう。
齋藤:とても成功した政策ですね。そのきっかけは、祖父江先生が研究に関わったスモンでしたね。
祖父江:そうです。難病対策はスモンから始まりました。昭和30(1955)年頃から、下痢などが続いた後、急に足の感覚がなくなり痺しびれを訴える患者が出てきました。目が見えにくくなったり、足が麻痺して歩けなくなる人も多く、原因不明の奇病と騒がれ、社会問題になったのです。
当時、その原因究明に厚生省(当時)は画期的な研究費を出してくれました。当時のお金で5,000万円、今のお金で何億円です。だからスモンの原因究明を一挙に進められて、昭和45(1970)年に原因がキノホルムという薬剤だとわかりました。いわゆる医原性疾患(患者の治療のために行われた医療行為が、新たな疾患を引き起こす)だったのです。「薬害の原点」ともいわれました。その後はキノホルム剤の使用を中止したことにより、新規の患者の発生が急速に終焉したのです。
齋藤:先生は当時、非常にご苦労されたでしょう。
祖父江:ええ。ですが、そういう難病対策の筋道をつくることができたということで、貢献度が大きかったです。日本の難病対策は、患者の医療費の自己負担を最小限度にするための予算もついていることが特長だと思います。最近では、平成27(2015)年の「難病法」施行は大きな意味を持つと思います。将来にわたり安定した法律上の根拠ができたと思います。
齋藤:昔は難病指定は少なかったですが、今では300以上が指定されていますからね。
祖父江:その点では日本の医学の勝利だと思います。スモンであのような経過をたどったことが大きな進化を生んだのです。あのとき、「原因のはっきりしない病気はいわゆる難病である。原因がはっきりしないと治療法もはっきりしない。そのために原因を突き止めなければならない」と、厚生省が大きな研究費をいっぺんに出したことは大英断でした。それまではひとつの病気の原因究明には、少なくとも50年はかかるといわれていました。それがわずか数年の間に、原因が薬剤であると突き止められました。悉皆調査や疫学調査が非常に役に立ったのです。
齋藤:なるほど、疫学調査によって原因が突き止められたのですね。
祖父江:疫学調査が大事になります。疫学調査の莫大な研究費を国が出してくれたからはっきりと原因がわかった。原因不明の病気にどのようにアプローチをしたらよいか、スモン研究がいいサンプルになりました。スモン研究のプロセスが大きな後世に残る教訓として出たわけです。
齋藤:キノホルムは日本以外で使われていたのですか。
祖父江:世界中で使われていました。しかし、使い方の問題です。日本人は薬好きですから、いったん薬をもらうとずっと飲んでいる。キノホルムは長く服用する薬ではありません。旅行先で下痢を起こしたときなどに突発的に飲む薬だったのを間違えて長い間飲んでしまったので、重篤な副作用が出たのです。
現在でも薬を飲み続ける人がいますが、それは危険です。薬物はある特定の症状には効くけれど、一方でいうと微量な毒を飲んでいるのと同じで副作用が出ます。だから適当なところで断ち切らないといけない。たいていの開業医は薬を出し続けます。患者さんも飲まないと不安だから飲み続ける。それが日本の医療の現状。それをどこかで打破しないといけない。アメリカでは残薬を次の診察に持ってきなさいといいます。薬残を勘定するわけですね。それを日本でもやるべきです。日本では薬を捨てたり、何年も前の薬がたくさん残っていて、それを飲んだりする。非常に危険ですね。
齋藤:たしかにそうですね。食べ物になると皆さん賞味期限に神経質になりますが、薬の服用期限はどこに書いているかわかりにくいですね。
祖父江:それが日本の医療の弱点です。
齋藤:やはり国民皆保険で薬代が安いことに一番の要因がありますね。
医学会総会の市民向けプログラムで健康に対する意識啓発
祖父江:近年の医学会総会では一般市民向けの講演会、展示会が盛んになったようですが、今回はどんな企画がされましたか。
齋藤:健康長寿社会をつくるには国民1人ひとりが知識を持ち、毎日の生活習慣に気をつけることが大切です。それもなるべく若い時代からです。
今回は3月30日から4月7日まで、ポートメッセなごやという名古屋港に近い広大な展示会場で「健康未来EXPO」を開催しました。入場無料です。春休みに小中高校生が来やすい期間にしました。子供たちが「みて・ふれて・まなぶ 医のテーマパーク」と位置づけ、体験型の展示をめざしました。「まなびのまち」、「きぼうのまち」、「あたたかいまち」、「ひろがるまち」の4つのエリアでさまざまな展示が行われました。
初日の3月30日だけで2万人を超える人たちが来場し、期間中に30万人を超える市民が参加しました。アンケート調査でもまたやってほしいという意見が多く、大成功であったと思います。
祖父江:名古屋での24年ぶりの医学会総会が無事に終わりよかったですね。本財団のテーマでもある「健康長寿」について、市民にも情報発信をしたことを評価します。おつかれさまでした。
(2019年7月発行エイジングアンドヘルスNo.90より転載)
対談者
- 齋藤 英彦(さいとう ひでひこ)
名古屋大学名誉教授
国立病院機構名古屋医療センター名誉院長 - 1963年名古屋大学医学部卒業、1968年名古屋大学大学院医学研究科修了、医学博士、1976年米国Case Western Reserve大学医学部内科Assistant Professor、1979年同Associate Professor、1982年佐賀医科大学教授(内科学)、1984年名古屋大学教授(内科学第一講座)、1991年同医学部長(併任、~1995年)、1998年同医学部附属病院長(併任、~2000年)、2001年国立名古屋病院(現・国立病院機構名古屋医療センター)院長、2002年名古屋大学名誉教授、2006年JR東海総合病院(現・名古屋セントラル病院)院長(~2011年)、2006年国立病院機構名古屋医療センター名誉院長。専門は血液内科学。
転載元
WEB版機関誌「Aging&Health」アンケート
WEB版機関誌「Aging&Health」のよりよい誌面作りのため、ご意見・ご感想・ご要望をお聞かせください。
お手数ではございますが、是非ともご協力いただきますようお願いいたします。