老いは衰退ではなく成熟(山折 哲雄)
公開日:2019年9月13日 11時20分
更新日:2021年6月30日 11時08分
シリーズ第13回生き生きとした心豊かな長寿社会の構築をめざして
わが国がこれから超長寿社会を迎えるに当たり、長寿科学はどのような視点で進んでいくことが重要であるかについて考える、シリーズ「生き生きとした心豊かな長寿社会の構築をめざして」と題した各界のキーパーソンと祖父江逸郎公益財団法人長寿科学振興財団理事長との対談の第13回は、宗教学者の山折哲雄・国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)をお招きしました。
90歳以上の人も社会で活躍する時代
祖父江:今日はお忙しいところ時間をいただき、ありがとうございます。私ども長寿科学振興財団は平成元年(1989年)の創設で、間もなく30年を迎えようとしています。その頃から急速に高齢化が進んできて、厚生省(当時)は各都道府県の自治体に高齢社会に適応するための施策を考えるよう促す政策をとりました。昭和の終わり頃から平成の初めの頃です。各市町村は、それぞれ考えて何かやり出し、かなり意気込みがあったのです。
しかし、30年近く経って、ややトーンダウンしてきました。特に少子化が高齢化に加わり、人口減少と人口構成の変化という時代になってきたため、それに対してどう対応したらよいのか、国としての大きな課題でもあるのです。
私どもの長寿科学振興財団としては少子高齢社会について何かの形で国に提言していくのも事業の1つです。これから「生き生きとした心豊かな長寿社会の構築をめざしていく」にはどうしたらよいのかについて、社会的にご活躍なさっている先生方にお越しいただき、お話を承っています。山折先生には宗教学のお立場からご意見をうかがいたいと思います。
山折:ある雑誌の特集で、最近90歳以上の人が大活躍している様子が掲載されていました。京都でも90歳以上の瀬戸内寂聴さんや千玄室さんが非常にお元気で、活発な発言をなさるなど社会的にも活躍しておられます。私が80歳過ぎたくらいで「年を取った」だなんて言ってはいられません。
祖父江:だいぶ時代が変わり、元気な高齢者が増えてきましたね。今は暦年齢から10年ぐらい差し引いて考えないといけないと思います。
100歳というのは"高嶺の花"だったのが、今はそうではなくなったようです。100歳以上の人は6万人を超えました。団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる2025年には、100歳以上の人が20万人近くにまで増えるという予測もあります。
山折:その100歳以上の方々の、健康状態はどうなのですか。
祖父江:百寿者には寝たきりや認知症の人が多く、健康な人は2割に過ぎないといわれています。また85歳以上では40%以上の人が認知症です。だから国をあげて認知症対策を国民運動にしようとしているわけです。地域の人たちを巻き込んで、認知症の人の生活を守るというものです。いわゆる認知症という病人ではなく、普通の人と同じように地域で生活できるようにしていこうという考えです。
山折:認知症の人がどの程度いるのか、正常人との境界もわからなくなりました。
認知症を告白したレーガン元アメリカ大統領
山折:それで思い出しますのは、レーガン元アメリカ大統領です。レーガンさんは大統領をやめてしばらくしてから、「自分はアルツハイマー型認知症になった。だからもう引退する」と引退声明を世界に出したのです。
祖父江:区切りを付けたわけですね。
山折:そうです。完全に世間との付き合いを遮断したのです。ちょうどそのとき、レーガンさんの友人であり、彼の自伝を執筆していたライターがいました。その人が『ニューヨーカー』という雑誌に投稿していたのですが、「自分は今までレーガンさんの自伝を書いているので、毎週のように彼に会っていた。しかし、認知症だということを告白したので、それ以後、彼と会うことをやめた」と。それは自伝を執筆することをやめたということではなく、会わなくてもできる仕事ですから、もう会う必要がないということです。その根拠は「人格性を失ったから」ということでした。人格性を失ったら、人間としての付き合いは意味を持たないという認識は、いかにも欧米の近代的な人間観に基づいた考え方だと思いました。日本人ならやはり最後の最後まで付き合うでしょうね。
祖父江:それはそうでしょう。文化の違いでしょうか。
山折:その文化の差というのが、高齢者に対する社会の態度の違いになって現れるのではないかという気がします。日本人はいつまでたっても"曖昧なまま残す"というところがあるのではないでしょうか。
社会的な役割を持っている人間が認知症になった場合には、告白をするということで"けじめ"が付きます。それが社会全体に対する、ある影響力になるわけですから。日本はそれができない文化ではないでしょうか。
祖父江:そうですね。日本人は曖昧を好む民族ですから。もう1つ、認知症は病識がないところに特徴がありますが、自分が病気であることを認識していないために告白もできないということもあります。それにしてもレーガンさんは、大変勇気があったと思います。
山折:大変な勇気ですね。だからといって、アメリカ人のすべてがそうだというわけではないでしょうが。一方でそれとは違う日本的な生き方、日本人の人間に対する考え方も大事にしなければならないと思います。
三原則「食べ過ぎない、飲み過ぎない、人に会い過ぎない」
祖父江:現在の長寿社会は、高齢者にとっては住みやすい社会ではないと感じます。われわれの時代にはなかったITやコンピュータがどんどん入ってきて、そういうものについていけません。スピーチのスピードも速くなり、高齢者にはフォローできないのです。たとえば新聞にしても、子ども用の記事欄はあっても、高齢者用の記事はあまりありません。高齢者の層は厚いにもかかわらず、なぜこの時代に対応していかないのかと感じています。先生のお考えはいかがでしょうか。
山折:高齢者以外にも、若者のネット依存など、ITの問題が非常に大きいことは重々承知していますが、社会的な、あるいは人間的な諸条件の不具合や不安をすべてITのせいにしてしまう風潮がありますね。ITのせいにする前に、われわれ自身の生活自体をどうするか、社会のあり方をどうするかということを、もっと考えなければならないと思います。
ITというのは、もう防ぎようがない。こんな便利なものはありませんから、今さらこれを制限してもできるものではありません。むしろそうではない「考え方の逆転」が必要だと思います。
私は還暦を迎えて60代の後半ぐらいから、「わが人生の三原則」を考えるようになりました。三原則とは、「食べ過ぎない、飲み過ぎない、人に会い過ぎない」です。私は若い頃から酒を毎晩飲んでいますから、アルコール依存症です。人に会うと楽しいですから、つい深酒になってしまう。ですが、やはり徐々に制限しなければと思って、実践してほぼ20年になります。この三原則を曲がりなりにも守るようになって、みるみる私は健康になりました。
それまでは、万病を背負ったような人生でした。もう消化器系は全部やられています。手術も2度やり、血を吐いたり、入院したりの繰り返しでした。しかし、三原則を守るようになってからは、今が一番、人生で健康です。
お酒を飲むにしてもゆっくり飲む。毎晩1合ぐらいでやめますが、ちびりちびりです。それからよく物を噛むようになりました。だいたい夕食は6時半ぐらいからはじめて、終わるのは9時です。ご飯1膳とちょっとのおかずがあって、ちびりちびりやっているうちに、9時になってしまいます。そうしますと、もう最後には半分眠りながら飲んだり食べたりしています。それが終わって、テレビを消してすぐ寝ますから、朝はだいたい3時には起きます。
朝起きてしばらく、私は「早朝座禅」と称しているのですが、1時間ぐらい座禅をしまして、その間ずっとお茶を飲みながら、黙って座っています。頭が一番クリアになるのがその時間帯です。そこで物を書いたり、仕事をします。その2、3時間後には朝食となります。朝食は、ご飯とみそ汁と漬物、それから魚や納豆、豆腐を毎朝食べています。朝食を摂るのにだいたい2時間かかります。ゆっくり噛んでいると、自然にそのぐらいの時間になってしまうのです。
そういうことがあって、「自然に、よく噛む、ゆっくり飲む」が、「飲み過ぎない、食い過ぎない」になるのです。
それからもう1つは、90歳で死ぬか、100歳で死ぬかわかりませんが、自然な死に方をするためには、ぎりぎりまで健康体であることが必要です。いろいろな病気のまま死を迎えますと、必ず苦しみに襲われます。ロウソクの火が消え去るように自然に衰えて寿命を迎える。それまでできるだけ健康であることです。
祖父江:高齢者はちょっとした体の不調が重大疾患につながるという不安から、医療機関にすぐ行ってしまいます。毎日、医療機関に行くことが仕事になり、薬をもらってそれを飲み続ける。そのために胃腸の調子が悪くなる。そしてさらに次の薬をもらうことで、薬漬けになってしまうのです。
山折:もう1つ、健康維持には、運動が必要だと思っています。特に足腰を鍛えるため、何十年も、毎日小1時間は散歩するようにしています。
私の住んでいる京都は歩道が狭く、歩きにくいですね。自転車の行き来が増えて、そのほとんどの人は運転マナーが悪い。
過剰介護による身体機能低下の悪循環
山折:しかし、老人が生活しやすいように、すべてバリアフリーにすればよいのかというと、そうではありません。老人が歩いたり、物を乗り越えたりすることができなくなると、ますます筋力や体力が衰えて、悪循環に陥るわけです。
祖父江:そうですね。今は高齢者施設がたくさんできています。施設では食事は全部つくってくれる、寝る時間になるとベッドをつくってくれる。そうすると本人がやることがほとんどない。要するに上げ膳据え膳で生活していると、どんどん各臓器の組織は萎縮して小さくなっていくのです。
最近は、「サルコペニア」といわれます。「サルコ」は筋肉で、「ペニア」は減少するという意味です。年を取れば筋肉が細くなっていってしまう。筋肉に限らず、体全体が痩せてくる。脳もかなり小さくなる。そのことが身体機能の低下を招くのです。
たとえば臓器によっては、30代の人よりも、70、80代の人は、半分ほどに機能が落ちます。ところがそういう意識がなく、30代と同じようにやろうとすると、必ず失敗するのです。
山折:私が一番注意するのは、高いところから降りるときです。足腰が不安定になります。人様の家を訪ねて帰りに玄関で靴を履くとき、これも注意します。少しの落差なのですが、上から足を降ろす場合、何かにつかまらないと体は動きません。だから自動車から降りるときも怖いです。お風呂も怖いですね。
祖父江:お風呂での事故が非常に多いですね。お風呂での溺死が、かなり大きな数になっています。
日本の伝統社会の翁(おきな)の思想に学ぶ
山折:過剰介護、過剰福祉、その原因は何かをずっと考え続けています。今から30年ほど前に、「老人の問題をどう考えるか」をテーマにした学会のシンポジウムに招かれました。社会学、人類学、哲学、医学などの分野の専門家が集まり、総合的な討論が行われました。シンポジストの方々のすべての発言が、「老人は弱者である。社会的な敗者である。だからそれは救済されなければならない対象である」でした。
その原点にあるのは、どうやら戦後のイギリスの労働党内閣のアトリーさんが提唱した社会福祉思想であり、それが戦後の日本の社会福祉政策の根本にあると、あとになってからわかってきました。
その考え方自体が間違っているとはいいませんが、「老人はサポートしなければならない対象である。救わなければならない対象で弱者だ」という基本的な考え方は問題です。
それ以前の日本の伝統社会では、「老人とは一体何だったのか」と考えますと、たとえば大和言葉に「翁(おきな)」という言葉があります。老人を翁として尊重するという伝統があったわけです。
特に15世紀の世阿弥が大成させたお能の世界をみますと、いろいろな曲目があって、能楽五百番、千番といいますが、その最も中心の第一の曲が「翁」です。これは「神の曲」、「神曲」といわれて尊重されています。その内容は、あの柔和な笑顔の老人の面をかぶった役者が出てきて舞を舞う。次に面を付けない少年が出てきて、「千歳ノ舞(せんざいのまい)」を舞う。今度は、同じ翁の柔和の面だけれども、黒色の翁が出てきて、「三番叟(さんばそう)」を舞い納めて終わる。
それは翁を非常に尊重した曲で、いかに日本の伝統文化というものが、老人を大事にしてきたかの証です。要するに能楽の世界では、老人というのは主役のシテなのです。
『古事記』、『日本書紀』、『風土記』にしても、老人はその土地の長老として、土地の成り立ちから、地名がどうしてつくられたかということ、その地上の一切合切を知り尽くしている知識人です。天から天津神が下ってきたときに、それをお迎えして、「自分たちが国津神である。この地上の神である」と名乗る、そういう役割を演じていたということは、『記紀神話』に出てくるのです。それ以後の物語や演技でも神様がこの世に姿を現すときは、老人の姿をしています。つまり日本の伝統文化では老いは衰退ではなく成熟を表わしているのです。
成熟は英語では「マチュアー(mature)」ですが、これは一種の「盛(さか)り」を意味しています。これに対して東洋的な伝統・価値観における成熟というのは死の世界まで及ぶ自然成長のプロセスそのものです。「盛り」を過ぎても、たとえ老いても、死まで続くのが東洋的な成熟です。
「ひとり」から生まれる豊かな価値観
祖父江:今の社会の現状に関して、何かアドバイスはありますか。
山折:1つは、国立社会保障・人口問題研究所が平成24(2012)年度に出した「日本の将来推計人口」にある世帯主65歳以上・75歳以上の世帯の家族類型別世帯数の推移では、これからの20年後、30年後の日本の社会の予測を出しました(図)。それによると「単独世帯」、つまり「ひとり暮らし」が激増するというのです。「単独世帯」は孤独死につながり、人間を不幸にするという前提の報告でした。
私はそうなるかもしれないが、日本の文化の中で、歴史の中で、「ひとり」という言葉は、もっと尊い価値観を持っていると思っています。「ひとりになる」ということが、いかにいろいろ豊かな価値観を生み出してきたかと思うのです。
『万葉集』にある柿本人麻呂の有名な歌に、
あしびきの やまどりの尾の しだり尾のながながし夜を ひとりかも寝む
(「ああ今夜は、私ひとりで過ごさなければならないのか」という、恋人の身の上をじっと考え続けている悲しみ、嘆き。孤独の夜に耐えながら、相手のことを思う心の歌)
ひとりではあるけれど、恋焦がれる恋人に対する思いを持ち続けて待っているという、「人間関係の中のひとり」。それは寂しい、悲しいけれども、その人間の生き方を一番の奥のところで支えているような世界の歌でもあるわけです。
中世になりますと、親鸞は、『歎異抄(たんにしょう)』の中で、阿弥陀如来の、万人をお救いになるというお誓いのことをよくよく考えると、それは「親鸞ひとりがためなりけり」と言っています。阿弥陀如来という救済仏は、万人を救済する仏さんだということは、誰でも知っている。万人救済仏だと知っているが、しかしよくよく考えると、それは親鸞ひとりだけのためにお立てになられたお誓いだと自覚すると、告白しているわけです。
その「ひとり」というのも、「自立したひとり」という意味で、非常に大きな内容ですね。1人ひとりが「自立したひとり」を自覚するときに、初めて救済仏の救済の光に包まれるということになる。そういう「ひとり」というのは、ヨーロッパ近代がつくり出した個人の理想的なあり方を示しているともいえるのですが、それだから何も個人の尊厳のモデルをヨーロッパにだけ求める必要はないわけです。わが国でもちゃんと親鸞がそういうことを言っているのですから。
明治時代の福沢諭吉に「一身独立して一家独立する。一家独立して一国独立す」という言葉があります。独り立ちすることが社会人となって生きていく出発点だと言っています。ここにも親鸞から日本人が受け継いできた「ひとり」の伝統が生き続けています。「独立」という言葉を聞くと、英語のインディペンデンスの翻訳とばかり思いますが、明治の知識人、先覚者は、「独りで何事かを成す」という志と情熱を持っていたと思います。そういう伝統、価値観というものを忘れ去ると、ひとりになるとみんな孤独になって、不幸な人生を送ることになるという発想になってしまう。
祖父江:大変大事なことですね。今ひとり暮らしの高齢者が約600万人いて、この人たちがどういう気持ちで毎日を過ごしているのか。
山折:そうです。そこをもう少し調査しなければなりません。中には俳句の好きな人もいる。歌の好きな人も、絵の好きな人もいる。妄想の好きな人もいますよね。
尾崎放哉(ほうさい)という大正時代の俳人は、「咳をしても一人」という俳句をつくりました。人間の内面を、もう少し深く洞察するような、そういう社会政策が望まれます。
人生80年時代の生老病死
祖父江:日本人の死生観はどうでしょうか。
山折:「死生観」という言葉は日本語にしかないのです。英語にもドイツ語にもないと思います。生きることは、すなわち死ぬことである。死を覚悟すること。死を引き受けることが、すなわち生きること。生と死は背中合わせになっている。そういう考え方を象徴的に示しているのが、この死生観という言葉です。これは400年、500年続いた言葉だと思います。日本人の五臓六腑にしみ込んでいる言葉で、われわれは人生50年時代には経験的に何となくそういうものと思っていました。寿命が50年、60年なら、働きづめに働いて、定年を迎えた頃から、ああ、そろそろ死がやってくるなと、みんなある程度覚悟はしていたわけです。
ところが気がついたら、ここ30年、40年の間に、「生、老、病、死」の重い問題が一挙に押し寄せてくるような、平均寿命80年の時代になってしまいました。そうすると「生」と「死」の間に、「老」と「病」が入り、「死」はずっと先送りされてしまったという状況があります。にもかかわらずこの時代に死生観という人生観に代わるモデルが、まだできていないのです。
人生80年だろうと、90年だろうと、あるいは100年だろうと、この死生観という考えを原点に、そこから何かを学ばなければいけません。いつも「われわれの足下には、死の問題がある」ということを前提にした生き方や若い人への教育が必要だと思います。
祖父江:生き方の教育はぜひ必要ですね。
山折:そうした政策も必要だと思います。ただ「長生きすればいい」というだけの考え方を考え直す必要があるということではないでしょうか。
祖父江:長生きはもちろんすばらしいことですが、そこに健康と心の充実、そして経済の豊かさが伴うものでなくてはならないでしょうね。
先生、どうも長い時間、ありがとうございました。
(2016年1月発行エイジングアンドヘルスNo.76より転載)
対談者
- 山折 哲雄(やまおり てつお)
宗教学者・国際日本文化研究センター名誉教授(元所長) - 1931年、父が浄土真宗の布教のために赴任していたサンフランシスコで生まれる。37年に帰国。43年に岩手県花巻市に疎開。54年東北大学文学部印度哲学科卒業、同大学院修了。東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、白鳳女子短期大学学長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。南方熊楠賞・瑞宝中綬章などを受賞。希望郷いわて文化大使。
著書に『死を思えば生が見える』(PHP研究所)、『わが人生の三原則』(中央公論新社)、『ひとり達人のススメ』(主婦の友社)など多数。
転載元
公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.76