第1章 序論 1.超高齢社会における認知症の実態と介入のあり方
公開月:2019年10月
一般財団法人全日本労働福祉協会会長
栁澤 信夫
- 1.はじめに
- 2.高齢者の増加に対する生態学的および社会的対応
- 3.医学研究と医療への注力
- 4.脳科学と認知症研究
- 5.研究成果の普及、啓発
- 6.高齢者の自立を妨げる要因-病気と心身の老化-
- 7.認知症の背景となる脳の発達と老化
- 8.認知症の頻度、年齢との相関
- 9.認知症の前段階-ぼけと経度認知障害(MCI)
- 10.認知症の定義と症候
- 11.認知症の診断基準とその意義
- 12.治せる認知症(treatable dementia)
- 13.認知症の危険因子
- 14.認知症の予防因子
- 15.認知症の治療
- 16."ピンピンコロリ"から"人生100年、楽しく、しぶとく生きぬく"時代へ
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1.はじめに
少子高齢社会は現政府によって国難といわれ、「健康寿命の延伸」が内閣の目標として種々の施策がとられている。医療・介護・福祉の立場からは、生活習慣病、がん、認知症が高齢者の生活の質(QOL)を妨げる大きな課題である。糖尿病の原因が解明され、インシュリンの合成・使用が可能になって、90年が過ぎた。病気の研究は、原因の解明と治療法の開発・普及により病気を根絶することを目的とするが、糖尿病は益々増えつつある。このような歴史に鑑みれば、上記の各疾患は"根絶"よりは"抑制"により患者のQOLを維持することが目標となろう。今年度の業績集はこのような視点から「認知症の予防とケア」と題して、各領域の専門家に執筆していただいた。
現在アルツハイマー病は認知症の半数以上を占めるが、その脳病理発生はほぼ解明されたが、医学的予防法はまだ確立されず、対症的な薬物療法の効果も一時的である。従って種々な非薬物的介入が行われるが、その目標は認知症の人々の元気の賦活と、喜び、満足である。従って介護者は認知症の人々に愛情と共感を持って接しなければならない。本書は、認知症の人々のあるべき生活の場、個人毎のあるいは集団でサポートする介護の場と、そこにおける介護者のあり方を中心に構成されている。
この序論では、わが国における認知症研究の施策と歴史、病気の理解、危険因子と予防因子、治療法についての現状を解説した。そして認知症は病気というより、脳活動の老化の極で現れた生体現象ととらえる立場からの対応について述べた。
なお文中のアルツハイマー病とアルツハイマー型認知症の用語は、世界的な用語の現状を考慮して、特別の接頭語を付けない場合は同義に用いている。
本書を一読された関係領域の方々が、認知症の人々に対する愛情と共感を増していただければ、編著者の喜びはこれに過ぎるものはない。
2.高齢者の増加に対する生態学的および社会的対応
古来高齢者は家族・社会において二つの側面から理解され、対応されてきた。一つは子孫を養育し、経験と智恵により家族、社会を指導する側面である。もう一つの側面は、ジョナサン・スイフトが「ガリバー旅行記」で不死人間の国を訪れ、美徳と過去の智恵を若い人に伝授する幸福な人々を期待したのに、頑固で気むずかしい、嫉妬深い老人の国であったと記載したように、高齢者の疎外感、あるいは社会的不適応を示すものである。前者は三世代家族で一般にみられるが、核家族や単身居住が増加している現代においては、高齢者の疎外感からうつへと移行するリスクが高い(表1)1)。
表1 高齢者の疎外感・社会的不適応の要因(栁澤信夫,20011)より引用)
これらを背景に高齢者は、精神的ショックや病気を契機に容易にうつ状態に陥る。
わが国は世界で最も長寿の国として知られているが2)、高齢化の速度も世界一である。一般に高齢化の速度は、高齢化率(高齢者即ちWHOの規定による65歳以上の者が全人口に占める割合)が7%(高齢化社会)から14%(高齢社会)に達する期間を一つの目安とするが、日本は1970年から94年の24年であり、高齢先進国のスウェーデンは85年、フランスは130年、最も短いドイツで45年であった。高齢化率21%以上を超高齢社会というが、わが国は直近(2016年)で27.3%の超高齢社会である。さらに人口を維持するためには合計特殊出生率(1人の女性が生涯に生む子供の数)が2.07以上を必要とするが、わが国では1.4台が続いており、少子高齢社会が進行している。従って高齢者の健康と社会活動の維持は、わが国にとって喫緊の課題である。
しかし従来から高齢者は身体的・精神的特徴から弱者と位置づけられ、1人あたりの医療費は高額である。そこで政府は21世紀へ向けて、生産力の低下、社会保障費の増加による国力低下の懸念から、1989年「高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(ゴールドプラン)」を策定して、高齢者のための医療・養護施設の設立、老人の看護・介護の要員の教育と訓練を推進した。その後1994年に「新・ゴールドプラン」として改定され、数の上では要員は確保され、2000年に介護保険が開始された。さらに21世紀を明るく活力ある社会による「高齢者の世紀」とするための「活力ある高齢者像」の構築、要援護高齢者の自立した生活支援のための介護サービス基盤の整備、住民相互が支え合う地域社会づくりや高齢者の居住環境整備などを基本的目標とする5ヵ年計画の「ゴールドプラン21」が2000年から開始された。
以上に述べたわが国における少子高齢社会を見通しての高齢者に対する社会的施策は、高齢者の疾患および老化に伴う心身虚弱状態に対する庇護策即ち福祉政策が基本であった。
医療現場においては、増加する生活習慣病(動脈硬化による心臓および脳の血管障害、糖尿病)とがん、老化に伴う種々な要因による骨粗鬆症、骨・関節疾患、認知症が、高齢者の死因および生活の質(QOL)を低下させる要因として益々重視されるようになった。
これらの医療の課題に対しては、「健康日本21(第一次、2000~2012年)、(第二次、2013~2022年)」において、生活習慣病の一次、二次予防が強調され(表2)、さらに「日本再興戦略」(2013年策定)の第一目標が「健康寿命の延伸」におかれ、それに基づく「データヘルス計画」(厚生労働省)、「健康経営優良法人」の顕彰制度(経済産業省)など、未病戦略を含む予防医療が重視されるようになった。
表2 自分の健康は自分で守る
- 健康日本21(2000-2012年度)
- 生活習慣病の原因になる生活習慣の改善を目標
- 特定健診・特定保健指導(2008年度から実施)
- 対象は40-74歳
- 目的:生活習慣病の予防で増加する医療費を抑制
- メタボリックシンドロームの予防・解消で生活習慣病を予防
- 健康日本21(第2次)(2013-2022年度)
- 健康寿命の延伸
- 生活習慣病の発病予防と重症化予防の徹底
- 社会環境の整備
3.医学研究と医療への注力
長寿科学の重要性は、高齢社会を迎えるにあたって、日本学術会議の勧告(1980年)をきっかけとして、ゴールドプランからゴールドプラン21(前述)の福祉政策の目標の中で位置付けられてきた。厚生科学研究において、シルバーサイエンス研究(1983~1989年)とその発展としての長寿科学総合研究(1990~2017年)が実施され、21世紀に向けてミレニアムプロジェクト(2000年~)とメディカル・フロンティア戦略(2001年~)が設定された。
メディカル・フロンティア戦略は、「働き盛りの国民の2大死因であるがんと心筋梗塞、要介護状態の大きな原因である脳卒中、痴呆(認知症)及び骨折について、地域医療との連携を重視しつつ、先端的科学の研究を重点的に振興し、その成果を活用し、予防と治療成績の向上を果たす」ことを目的とした。その中ではゲノム科学、蛋白質科学を用いた治療技術と新薬の研究および国立長寿医療研究センターの開設等が重視され、疾患としては、がん、生活習慣病、痴呆対策の推進が謳われた。がんおよび心疾患と脳卒中は、結核が急速に制圧された1960年から男女ともに3大死因として2010年代に至ったが、要介護状態の原因として認知症が大きな位置を占めるようになった(図1)3)。それに伴い、2007年に行われた第五次医療法改正において4疾病5事業に定められた、がん、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病の4疾病に対して、社会保障審議会医療部会によって職場におけるうつ病、高齢による認知症の増加による精神疾患が加えられ、2011年には5疾患となった。
認知症施策については、認知症の疫学調査を東京都が1973年および1980年の2回実施し、80歳以降に患者数が大きく増加する事実を明らかにした4)。厚生省は「痴呆性老人対策推進本部」を設置し、"老人性痴呆疾患センターの創設"(1989年)などの提言が行われたが、米国のような対策の実現(例:アルツハイマー病研究センターの全米10ヵ所への設置)はなく、2012年に至って「認知症施策推進5ヵ年計画(オレンジプラン)」が策定された。さらに2015年には「認知症施策推進総合戦略~認知症高齢者等にやさしい地域づくりに向けて」(新オレンジプラン)が策定された。これらの施策については本書で詳述される(2.オレンジプラン・新オレンジプランの現状と課題)。
4.脳科学と認知症研究
1.欧米の歴史
高齢化が世界一急速に進行した日本であるが、認知症を大きな社会問題として警告を発したのは米国であった。1984年12月、週刊誌"Newsweek"はアルツハイマー病の特集を組み、「アルツハイマー病はがんより悲惨だ。心も死に、身体も死ぬという二重の死を味わう」と認知症の重大さをアピールした。世論を受けて米国政府は"脳の世紀Decade of the Brain"を1990年から10年計画で開始した。そのうち高齢者に関する課題研究は国立老化研究所(National Institute of Aging:NIA)を通じて行われたが、その予算の85%は所外研究(extramural program)に投資された。全米の10ヵ所にアルツハイマー病研究センター(Alzheimer Research Center)が設置され、活発な研究活動の核となったが、研究業績による見直しが5年毎に行われる、し烈な競争が制度化された。
一方ヨーロッパにおいては、高齢化はわが国よりも早くから進行したが、主な対策は養護施設(nursing home)におけるケアである。老年精神医学が発達しているドイツにおいては、認知行動療法、音楽療法、絵画療法、運動などを組み合わせたデイケアが活発に行われているが、スカンジナビア諸国においては自立困難者は自宅を引きはらってnursing homeを終の住処として入所し、数年で死亡退所すると説明されている。その学問的背景としては死生学(anthropology)が重要な領域を占めるといわれる。
しかしEUは米国NIAによるアルツハイマー病研究センターに倣ってヨーロッパアルツハイマー病センター(EUDC)が43ヵ所指定され、そのうちドイツでは保健省の支援のもとに、Manheim大学を中心に6ヵ所の疫学、遺伝学及び情報センター、14ヵ所の臨床センターが指定されスタートした。
2.わが国の研究体制
科学技術の振興はわが国の最重要課題と位置付けられ、1994年科学技術基本法が制定され、翌年科学技術基本計画が閣議決定された。それを受けて厚生省は6分野の重点課題を設定し、その第一に「脳科学研究」を挙げた。これと並行して日本学術会議は脳科学研究推進のための勧告を出した。総理大臣の諮問機関である学術会議の勧告は非常に重みがあり、脳研究分野では関係各省庁が連携のもとに研究項目の分担、調整を行った。認知症については、厚生省による長寿科学総合研究で既に取り上げられてきたが、科学技術基本計画では、科学技術庁による「脳を知る、脳を守る、脳を創る」という三本立て研究が主なものであった。
厚生省は「脳を守る」分野に重点を置き、疾病に着目した研究を分担し、脳科学研究(脳科学研究事業)は1997年から独立して公募研究を行うようになった。1998年は8課題で研究を実施したが、その第一の課題が「痴呆・アルツハイマー病」であった。そして15年後の目標としてパーキンソン病と並んでアルツハイマー病が克服されるとした。パーキンソン病はかつて1960年代は発症後平均10年の余命であったが、現在は、寿命は一般と変わらず、生活の質(QOL)の維持が課題となっている。それに対して老年期の認知症は益々予防とケアの重要性が高まっている。
5.研究成果の普及、啓発
高齢化の急速な進展に伴い、認知症患者は急速に増加し、その対策は社会全体、保健、医療、福祉など一般および各専門領域全てにわたる最重要の課題となっている。
認知症とその関連領域をカバーする日本認知症学会は、2018年に第37回の学術集会を実施し、認知症診療に携わる各診療科の医師、薬剤師、看護師、介護スタッフなど多職種の人々が認知症への共通理解、協力体制を築き、社会全体で認知症の方々を支えていく仕組み作りを考える機会としている(下濱俊会長あいさつ)。認知症学会の機関誌「Dementia Japan」は季刊誌で2018年に第32巻を刊行しているが、毎号複数の特集を組み教育・普及活動を重視している。
関連学会誌や商業誌も認知症の特集を組むことが多いが、最近の書籍としては、「認知症テキストブック」(日本認知症学会編、2008)5)、「認知症疾患診療ガイドライン2017」(日本神経学会監修、2017)6)、「認知症トータルケア」(日本医師会雑誌・特別号、2018)7)が代表的なものである。
長寿科学および認知症研究の普及・啓発活動には、長寿科学振興財団が大きな役割を果たしている。この財団はゴールドプランの一環として位置づけられた「長寿科学推進十か年事業」の研究基盤を充実するための支援団体として設立された公益(財団)法人で、1990年から事業を開始した。当初から「長寿科学総合研究(近年は長寿科学政策研究と名称変更)」、さらに後年になり「こころの健康科学研究」から分かれた「認知症対策総合研究(のちに認知症政策研究と名称および研究の細目が変更)」の推進事業として、①外国人研究者招へい、②外国への日本人研究者派遣、③若手研究者育成活用(リサーチ・レジデント)、④国際共同研究、⑤研究成果等の普及・啓発を厚生(労働)省の補助のもとに実施してきた。
普及啓発事業として、「長寿科学の研究成果」を研究者、医療・介護・福祉の従事者に対して情報提供を行うために、年1回「Advances in Aging and Health Research(長寿科学研究業績集)」を発刊し、本書で18回目となる。毎回異なるテーマが選ばれるが、認知症については2002年「老年期痴呆の克服をめざして」(これは後に医学書院から書籍として出版)、2006年「認知症の予防と治療」が刊行された。そのほかにも多くのテーマで認知症について執筆されている。さらに財団では「Aging & Health」という機関誌を発行しており、その特集に認知症およびそれに関連した生活課題が取り上げられてきた。この研究業績集と機関誌は、全国の都道府県・市町村(1,778箇所)、全国の病院(300床以上)(1,142箇所)、看護系大学・学校(648箇所)、医歯薬系大学(150箇所)、全国老人保健施設協会都道府県支部(48箇所)等、合計4,572箇所、5,000部(2017年度分)が送付され、定期的な読者アンケートにより内容の向上が図られている。また「健康長寿ネット」と題する財団ホームページには、上記の資料に加えて多くのテーマについての解説が載せられており、年間300万件以上のアクセス(2017年10ヵ月分)を得ている。
6.高齢者の自立を妨げる要因―病気と心身の老化―
少子高齢化は国難であるという現政府の見解から、「日本再興戦略」(2013年策定)において、第一目標は「健康寿命の延伸」におかれた。それに基づく「データヘルス計画」(厚生労働省)、「健康経営優良法人」の顕彰制度(経済産業省)など未病戦略を含む予防医療が重視されるようになった。
現在わが国では、平均寿命と健康寿命は世界一と位置付けられるが、両者の差は図28)に示すように過去10数年に亘って短縮していない。女性の平均寿命は男性より長いが、非健康の期間も女性の方が長い。直近における平均寿命と健康寿命の差は、2013年において女性12.40年、男性9.02年である。
自立できない非健康の期間は、介護を受けている期間に置き換えることは可能であろう。2016年の国民生活基礎調査3)によれば、女性の要介護者は85-89歳の17.2%をピークに80歳以上の5年きざみのデータは、いずれも15%以上である。一方男性は80-84歳の9.0%をピークに75歳以上の5年きざみのデータは5.9%(75-79歳)から4.5%(90歳以上、女性はこの期間16.0%)と女性の要介護者が多い。また介護が必要となった主な原因には男女差がある(図1)3)。男性は脳卒中後遺症が最大で25.7%を占め、2位は認知症で14.2%である。一方女性では、認知症(20.0.%)が最大の原因を占め、ついで高齢による衰弱(15.1%)、骨折・転倒(14.9%)、関節疾患(12.8%)と続き、脳卒中は11.8%である。即ち女性は長寿ではあるが晩年の非健康状態では、認知症と老化状態および骨粗鬆症を背景とする骨・関節疾患が、要介護即ち非健康・非自立の状態を生ずる。
健康寿命の延伸を目標とする保健・福祉活動においては、認知症の予防とケアは最大の課題といえよう。
7.認知症の背景となる脳の発達と老化
ヒトで高度に発達した大脳は、認知、記憶、判断、行為さらに感性、創造性、人格など多くの機能によって、人間らしく"たくましく、うまく、よく生きる"ための行動の司令塔である(時實利彦)9)。
大脳は、動物の種として系統的に発達してきた特徴と、生まれてから成人になる過程で発達し、長期間機能した後、老化により衰える個体発生の特徴を有する。
1.大脳の発達
人の神経細胞はすべて、胎生期から乳児期(生後1年まで)に生まれ、その数は数百億個といわれる。その後学習や訓練によって異なる部位の神経細胞が神経線維によって結合され、神経回路網が形成される。神経回路網とその果たす脳機能は表3のように発達し、ほぼ青年期までにその基本は完成する。その回路網からはずれた神経細胞は、活動することなく不用の状態となり、アポトーシス(apoptosis)とよばれる過程で死滅する。特定の神経回路は繰り返しの使用すなわち訓練によって強化され、機能が向上する。運動選手は運動回路がより高度に発達し、研究者は研究に使用する神経回路が、芸術家はその芸術活動に用いられる神経回路が高度に発達する。
暦年齢 | 神経系の発達 | 脳機能 |
---|---|---|
胎児期―1歳 | 全神経細胞の生成 神経結合・髄鞘形成 |
|
出生―3歳 | 樹状突起の発達 シナプス形成 神経回路の形成 |
反射、模倣(運動、言語)、歩行、感覚(視覚、聴覚、体性感覚)、短期記憶 |
4歳―7歳 | 神経回路の形成 大脳の機能局在(言語中枢、他) |
自我の形成、自主的行動、創造性の芽生え、時間の概念(短期的) |
10歳―20歳 | 神経回路網の完成(左右大脳、皮質間連絡) 特定回路の強化 |
抽象的概念、三次元の理解、創造的行為、訓練、記憶 |
20歳― | 特定回路の強化 | 技術、創造的活動の進展 |
20歳― | 神経細胞の減少開始 | 記銘力低下 |
2.加齢による脳細胞の減少
一方20歳を過ぎると、ヒトの脳細胞は年齢とともに直線的に減少する(図3)10)。この図は正常人の脳の認知機能の中枢(無名質)、運動の中枢(黒質)、自律神経の中枢(青斑核)のいずれもがほぼ直線的に減少する様子を示している。神経細胞の数以外の指標でみても、大脳の血流量11)、酸素消費量なども同様に加齢とともに減少する。
但し、脳の神経細胞数には余裕がある。脳の変性疾患で神経細胞の減少と症状発現の時期をみると、例えば高齢者の神経変性疾患の代表であるパーキンソン病では黒質の神経細胞数が50%以下にならないと症状は発現しない。また脊髄の運動細胞数と、その興奮により発生する筋力の関係をみると、正常人の最大筋力発現時に興奮する運動神経細胞数は約50%と評価される。脳卒中における運動麻痺の回復過程でも、またサルの大脳皮質の剔除実験でも、障害された周囲の脳や、対側の脳活動により結果として麻痺が改善することが知られている12、13)。これを脳の"可塑性(plasticity)"という。
3.加齢による大脳機能変化
たしかに脳細胞が減少するせいか、一夜漬けの記銘力や簡単な計算能力は20歳前にピークを迎える。しかし種々な知的活動は成人以降も絶え間なく続き、新しい能力が獲得されていく。おおよそその精神機能と加齢の関係は図4のように表わされる。細胞レベルの新陳代謝は生下時から身体が成長する時期にもっとも高く、以後は次第に低下して20歳以降定常状態となる。全般的な身体機能および技能は20歳に向けて上昇し、その後一定となり徐々に減少する。一方、生殖機能は思春期から最も活発となり、ほぼ50歳を過ぎて急速に減退する。
これらに対して全般的な精神機能は急速かつ高度に発達し続け、50代でほぼピークに達してのち徐々に減退する。この図のデータは1970年代までのものであり、現在はピークはさらに高齢にシフトしている可能性がある。綜合的な知的機能もこれに置き換えて考えられるが、要素的な個々の機能は年齢によって差が生じる。単純な計算や短期記憶、とっさの判断力は若年の方が優れており、経験や思索、創造的活動に裏付けられた深い文化的総合知能は高齢者に特有なものである。Cattell15)は、脳全体の細胞数や血流、酸素消費量などの脳活動が反映される若者の知能を流動性知能(fluid intelligence)とよび、それに対して高齢者の知能を結晶性知能(crystallized intelligence)と呼んだ。その結晶性知能を含み、全般的な精神活動は80歳を越えると急速に衰える(栁澤,199116)参照)。
脳には大きな余力と可塑性があることは事実であるが、高齢者ではフレイル、サルコペニア、廃用症候群などの概念に表わされるように、代償能力の減少およびいったん失われた機能は回復し難いことを念頭に、認知症の予防およびケアによる進行阻止に努めなければならない。
8.認知症の頻度、年齢との相関
1980年東京都が実施した在宅高齢者(国際基準による65歳以上)に対する認知症(当時は痴呆)の疫学調査は国際的に極めて優れたものであった4)。全体として65歳以上の認知症有病率は4.6%であったが、65-69歳は1.2%、80代から急激に頻度は上昇し、80-84歳13.1%、85歳以上23.4%というデータは極めて印象的であった。さらに80歳以上ではその頻度に男女差が明らかとなり、女性は男性の約2倍多くの患者が認められた(80-84歳、女性16.1%、男性8.5%)。その後の調査でも年齢別の有病率は同様の結果が得られた。
厚生省統計情報部は1993年10月のある1日において継続的に医療を受けている患者数を疾病別に推計した数を、「日本の疾病別総患者数データブック」として発表した。このうち老人性痴呆(認知症)、アルツハイマー病、ピック病、脳血管障害による痴呆(動脈硬化性痴呆を含む)を「老年期および初老期の器質性精神病(老人性痴呆)」としてまとめ、患者数は7万1千人(男2万人、女5万1千人)と推計された。その性・年齢階層別受療者数を図517)に示す。この年齢別、性別の患者数グラフは、東京都の疫学調査に酷似している。
さらに厚生労働科学研究費補助金を得て認知症対策総合研究の研究班(主任研究者朝田隆)が実施した2012年における複数の都市部における認知症の年齢階層別の推計有病率を図618)に示すが、そのデータも80歳以降の急速な上昇と男女差は従来の疫学研究の結果によく一致している。但し80-84歳20%は従来のデータに合致するものの、85-89歳40%、90-94歳60%、95歳以上80%という数字は、85歳以上の高齢者は認知症が必発することを医療・福祉関係者に示したものとして極めて重要である。
なおWHOの統計をもとに国際的にみたわが国の認知症患者の推定有病率は、平均寿命世界一という長寿国に対応してと考えられるが、高い(図7)19)。特に今後の推定として、アルツハイマー病に対する画期的な治療・予防法が実用化されないことを前提とすれば、日本の認知症有病率が2015年から2035年の20年間に1.5倍以上増加して世界一になるという予測(図7)は注目される。
9.認知症の前段階―ぼけと軽度認知障害(MCI)
1.概念
従来高齢になると物忘れをはじめ認知機能の低下がみられ、わが国ではこれを"ぼけ"と呼んだ。この語源は"呆ける"からきており、軽い"ぼけ"は日常生活に支障がなく、表4のようにまとめられる。重症の"ぼけ"は認知症である。
表4 "ぼけ"とは何か
- 脳の老化現象の結果である
- 年をとると誰にでも現れるが、一人一人程度が異なる
- 症状は
- 物忘れ
- 理解が不充分、一面的
- 判断が一面的
- 性格変化(頑固、気難しい)
- 症状がひどくなると認知症(痴呆)になる
- ぼけの少ない職業
- 自営業
- 芸術家
- 政治家
欧米においても、認知症の前段階を示す概念が提案されてきた20)。現在繁用されている軽度認知障害(mild cognitive impairment:MCI)は、1996年Petersenら21)によって提案され、①記憶障害有り、②日常生活動作(ADL)正常、③全般的な認知機能正常、を示す概念であった。その後アルツハイマー病の前段階にみられる認知機能障害は記憶障害のみではないことから、MCIは健忘型と非健忘型に大別された。
MCIの頻度は、一見健常と思われ、自立した生活を送っている65歳以上(国際的な高齢者の定義)の住民調査によれば、3-5%というデータが多い20)。そしてMCIの予後についてみると、1年で約10%が認知症へと進展するとされる。また認知症へ進展するMCIでは、①高齢、②女性、③MMSE(Mini Mental State Examination:認知症のスクリーニング検査)の得点が低い、④抑うつ、⑤脳虚血所見(HachinskiのIschemic Score)、⑥アポリポ蛋白E4の遺伝子多型、などがリスクとなる20)。なおMCIから認知症に進展しない、あるいは種々の介入によって改善する場合もあることに注意する必要がある。
2.対応と予防
MCIでは認知症に対する介入と同様に、生活習慣病の予防・治療、運動、食事の注意、絵画・音楽療法(うたごえ喫茶他)、デイケアや認知症カフェなどでの集団生活・行動療法をすすめる。わが国の高齢者はMCIより"ぼけ"の名称になじんでおり、日常生活に支障のない"ぼけ"状態は、認知症よりもこれらの予防活動に参加しやすい。その場合、対象者の興味、関心、および地理的利便性、費用の利便性が大切である。現在地方自治体では、さまざまな形でそのような場が提供されている。歴史的には、県として公益法人を設立して対応している徳島県の「とくしま"あい"ランド推進協議会」は30年の長きに亘り活動し、「徳島県シルバー大学校」「シルバー大学校大学院」を運営している。また著者の居住地東京都世田谷区では、年齢に制限なく、スポーツ、トレーニング、音楽、ゲームなどで終日過ごせる"せたがやがやがや館"がある。
人生100年時代といわれ、超高齢社会が進展するこれからの時代は、加齢とともにぼけ(MCI)のリスクは誰にでも増大する。それを予防するための生活指針を表5に示す。常に新しいことに取り組む、好奇心、笑い、運動、などに心がけるように勧める。
表5 "ぼけ"を防ぐ生活をしよう
- 新しいことに取り組むチャレンジ精神
- 主体的に考えて、決断を必要とする活動を
- 好奇心を失わない:弥次馬根性
- 常に楽しく生きる:仲間と一緒に
- 身体を鍛える
これらすべては脳の活動を活発にする
10.認知症の定義と症候
1.定義と原因疾患
認知症は"一旦獲得された知的機能が不可逆的に障害されることにより、自立した生活が困難になった状態"と定義される。人間社会においては、ヒトは生まれて家庭、学校、社会の中で訓練され、学習することによって知的機能が発達し、家庭・社会で自立して活動する能力が獲得される。その知的機能は、大脳の新皮質機能として、記憶、判断、抽象的思考、要素的高次皮質機能(認識、言語、行為)などに分けて論ずることができる。さらにこれらに大脳辺縁系の活動も加わり、感情、意志、情緒などがあいまって形成される"人格"の必須条件となる。認知症はこれらの知的機能・人格が恒久的に失われる状態であり、成人の大脳を冒す慢性疾患において生じる。従って認知症の原因疾患は、表622)に示すように多彩である。知的機能が一時的に障害される意識障害や高次脳機能障害は種々の疾患でみられるが、可逆的(回復する)脳機能障害は認知症とは呼ばない。
表6 認知症の主な原因疾患(栁澤信夫,201622)より改変引用)
不可逆的な知的機能の障害は、臨床的に診断が困難な場合がある。認知症において、不可逆的な知的機能障害といわれる期間は、6ヶ月以上と定義される(ICD-10)23)。しかし6ヶ月以上認知機能低下が続いても回復可能な疾患が存在する。それらは正確に診断し、適切な治療を行えば、認知機能は回復する。このような疾患は"治療可能な認知症(treatable dementia)"とよばれ、正確な診断が極めて大切である。
真の意味で、不可逆的な認知機能障害は、大脳皮質の神経細胞あるいは神経回路網を形成する皮質下白質あるいは神経核の死亡・消滅によって生ずるものである。表6には従来の分類に従って、恒久的な大脳病変を生ずる疾患とtreatable dementiaの一部を含む認知症の原因疾患を列挙している。
高齢者に見られる認知症は50%以上がアルツハイマー型認知症であり、ついで脳血管性認知症、さらに病理学的に両者の特徴を有する混合型認知症がみられ、この3疾患で大部分を占める。さらに加えて以前はPick病、近年はレビー小体型認知症が注目されている。
2.日常生活における認知症の症状と問題行動
わが国では、高齢化とともに認知症患者数は急激に増加しているが、それ以前1980年代前半までは、アルツハイマー病およびアルツハイマー型老年期痴呆は老年精神医学の専門家が診療していた。精神疾患に対する偏見がまだ強い時代であり、患者は慢性期の精神病院(痴呆病棟と呼ばれる病棟があった)で管理されることが多く、一般にも"痴呆"あるいはひどい"ぼけ"といえばアルツハイマー病と理解する知識があった。
当時まとめられた老年期認知症の初期症状を表724)に示す。これらは現在も極めて有用である。また当時の東京都の調査(長谷川和夫他、1978)によれば、認知症患者のために家族や周囲の人達が悩まされる問題行動は多い順に以下のようであった。
しかし、患者自身にとってのもっとも人間らしい知的機能喪失の内容は、
などである。
これらの症候は、周囲からの観察に基づく認知機能障害の程度としては、CDR(Clinical Dementia Rating)2から3、即ち中等度から高度認知症に相当するが、そのような段階に進展しないために、認知症予備状態としての高齢期、ぼけあるいはMCIの段階で認知症防止の各種介入を実施することが大切である(後述)。
症状 | 問題行動 |
---|---|
健忘 |
軽いものは正常でもみられる。以下の所見があれば痴呆を疑う。
|
場所の見当識障害 |
|
計算力低下 |
|
自発性・意欲の低下 |
|
情動失禁 |
|
夜間せん妄 |
|
幻覚・妄想 |
|
人格変化 |
|
3.BPSD
認知症の重要な異常行動と心理症状は現在BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)としてまとめられる。行動症状には、身体的攻撃、不穏、焦燥、徘徊、性的脱抑制、収集癖、罵り、つきまといなどが含まれ、心理症状には、不安、抑うつ気分、幻覚、妄想が含まれ、本人および介護者の大きな負担となる。BPSDを呈する認知症としてはアルツハイマー型認知症が多く、いずれかの病期に出現し、またアルツハイマー病と脳血管性認知症が合併する混合型認知症ではさらに頻度が多いといわれる。
BPSDへの対策としては、非薬物療法が基本であり、患者を含むチームで対応する。また対症的な向精神薬は、患者、介護者の評価を重視して使用してよい。
4.病期判定法
後述の認知症の診断基準(表9)は、あくまでも専門用語を用いて簡潔に必要条件を述べているために、一般的にわかり難い面がある。わかり易く理解するために、大脳の機能障害および日常生活の障害別に認知症の症候を整理すると、表8のようになる。高齢期認知症の多くは進行性疾患であることから、初期から進展期に亘って各病期毎に適切な医療・ケアを行わなければならない。そのためにアルツハイマー病を中心に、臨床的重症度を判定する病期判定基準が数多く開発されている(本間、200825)参照)。
項目 | 障害の内容 |
---|---|
記憶障害 | 記銘力低下.近時記憶,エピソード記憶,人の名前など (過去の遠隔記憶,手続き記憶は比較的よく保持) |
見当識障害 | 時間,ついで場所の見当識 |
失語、失行、失認 | |
知的機能障害 | 計算力,知識,理解力,判断力 |
実行機能障害 | 自発性,意欲,計画,行為の順序 |
日常生活能力の障害 | 着衣,整容,食事,排泄,入浴,歩行 |
BPSD:Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia(行動症状(人格変化)) | 攻撃性,不穏,焦燥,徘徊,性的脱抑制,収集癖,罵り,つきまといなど |
BPSD:Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia(心理症状) | 抑うつ,不安,幻覚,妄想 |
まずスクリーニングを兼ねた簡便で繁用性の高いテストとして「長谷川式簡易知能評価スケール改訂版(HDS-R)」と「ミニメンタルテスト(Mini-Mental State Examination:MMSE)」がある。見当識、記銘力、短期記憶、計算力、言語機能に加えて、MMSEでは書字、構成行為(図形の模写)などの動作性検査が含まれる。またMMSEは国際性を有する評価法としての利点がある。
さらに比較的簡易で、日常のさまざまな生活機能の障害を評価して、総合的に病期を判定する目的の評価法として、clinical dementia rating(CDR)がある。CDRは、1982年にアルツハイマー病の病期を全体的に評価する目的で開発された。家族や介護者の観察情報に基づいて、①記憶、②見当識、③判断力と問題解決、④社会適応、⑤家族状況と趣味・関心、⑥介護状況(パーソナルケア)の6項目について、それぞれ独立して"障害なし"から"高度の障害"までの5段階評価を行う。その結果を総合して、健康(CDR0)、認知症疑い(CDR0.5)、軽度認知症(CDR1)、中等度認知症(CDR2)、および高度認知症(CDR3)と判定する。CDR0.5は前述のMCI、または"ぼけ"の段階で、日常生活は自立した状態である。CDRは国際的に多く一般的に用いられ、評価者間での変動は少なく、ほかの認知症尺度との対応も良好である26)。
11.認知症の診断基準とその意義
認知症の概念は以上のように難しいものではない。しかし臨床統計や研究のためには、疾患の定義を明確にして患者を選択することから、認知症にもいくつかの研究・疫学用の診断基準がある28)。そのうち最も汎用性の高い世界保健機関(WHO)による国際疾病分類第10改訂版(ICD-10)の基準23)を表9に示す。米国では以前からアルツハイマー病についての詳細な診断が用いられていたが、2011年国立老化研究所(National Institute of Aging:NIA) とアルツハイマー協会(Alzheimer Association:AA)が新しい診断基準を提案した。それによると、アルツハイマー病(AD)を重症度により(1)ADによる認知症、(2)ADを背景にした軽度認知障害(MCI due to AD)、(3)ADの発症前段階(preclinical stages of AD)の3つの病期に分類した。そして近年発達したFDG-PETやアミロイド(PIB)ペット、脳脊髄液(CSF)のアミロイドベータ蛋白(Aβ)42低下、タウ蛋白・リン酸化タウの増加などの診断用バイオマーカーをProbable ADの診断基準に取り入れた。アルツハイマー病は、症状発現の20年以上前から、脳に異常なアミロイドベータ蛋白(Aβ)が蓄積し、老人斑やアミロイドアンギオパチーを形成し、タウ蛋白の異常リン酸化により神経原線維変化から神経細胞死が促進されて、認知症を発症すると考えられる。従ってこのNIA/AAの新しい診断基準は発症前からADを診断することにより、治療薬の開発や介入研究に利用する側面が大きい。脳病変に直接作用し、脳の病理形態および病態生理学的変化に介入して病状改善や進行阻止を実現する手段が存在しない現在、先制医療あるいは未病戦略として診断用バイオマーカーを測定することは、慎重な配慮を必要とする。参考までに先制医療の内容を表10に示す。
表9 ICD-10による認知症診断基準のまとめ
(世界保健機関WHOによる国際疾病分類第10版改訂版23)より要約)
- 定義:
- 通常、慢性あるいは進行性の脳疾患によって生じる、記憶や思考、見当識、理解、計算、学習、言語、判断等
多数の高次脳機能の障害から成る症候群 - 診断基準:
-
表10 先制医療
- 定義:
- 遺伝子、mRNA、蛋白質、代謝産物、画像等のバイオマーカーを用い、将来起こりやすい病気を発症前に診断・予測し、介入する予防医療
- がんに罹患している可能性(リスク)を示すバイオマーカーが多く開発
- 実用化されているのはアミノインデックス(味の素KK)
- 疾患関連遺伝子も商品化(プロップジーンKK、他)
- 病気になるリスクの大きさが推測される。相関の程度は遺伝子により大きく異なる
- アルツハイマー型認知症、糖尿病、痛風、高血圧、肥満、骨粗鬆症、老化(寿命)、皮膚の荒れ、他
- 倫理的問題
- 難治性遺伝病の発症前診断
mRNA:マイクロリボ核酸またはマイクロRNA
12.治せる認知症(treatable dementia)
認知症の患者を診療し、介護を行う場合には、必ず原因疾患が診断されていなければならない。アルツハイマー型認知症をはじめ頻度の高い認知症の対応は、ケアとリハビリテーションが主であるが、病気に対する特異的な治療により治癒する患者に対して漫然とケアを続けることは許されない。治癒させることが可能で、日常のケアで念頭におくべき疾患を列挙する。
1.感染症
中枢神経梅毒(進行麻痺)は従来よりも頻度は減少したが、HIV感染症との合併もあり、依然として鑑別を要する疾患である。記憶障害、理解力・判断力の低下、異常行動などを生ずる。
結核性あるいは真菌性髄膜炎(髄膜脳炎)は一般に亜急性(2、3週から1、2ヵ月)の経過をとるが、急性期には軽度から中等度の意識障害を認め、慢性化すると認知機能低下、自発性低下、人格変化を呈する。真菌性の場合は、原因菌はクリプトコッカスが多く、アスペルギルス、カンジダもある。免疫不全状態や副腎皮質ステロイド薬の服用は危険因子となる。HIV感染の合併にも注意を要する。なお近年は海外の特定地域に滞在した旅行者に輸入真菌症がみられることがあり、渡航歴があれば注意する。
2.傍腫瘍性神経症候群
腫瘍(小細胞性肺癌、精巣腫瘍、乳癌、ホジキン病他)に伴う中枢神経障害として、大脳辺縁系に病変が目立つ辺縁系脳炎(paraneoplastic limbic encephalitis)がある。記銘障害、認知機能障害、辺縁系機能に関連した混迷・興奮・うつなどの精神症状、てんかんなどがみられ、症状の進行が早い。疾患特異的な自己抗体が血清、髄液に出現し、腫瘍に対する早期治療、免疫療法によって神経症候は改善する。
3.内分泌機能異常による認知症
甲状腺機能低下症が最も重要である。潜在性甲状腺機能低下は60歳以上の女性25%にみられ、甲状腺機能低下症の65%は認知機能低下をきたすといわれる29)。甲状腺ホルモン低下に伴い脳循環障害を生じ、感情不活発、注意力・集中力低下、無関心、思考緩慢、記憶力低下、理解力・判断力低下、抑うつ、易興奮性、幻覚・妄想状態などを生ずる。記憶力低下、集中力低下などアルツハイマー型認知症と類似した症候を示す。これらの認知機能低下は、甲状腺ホルモン剤の投与で軽快する。
4.特発性正常圧水頭症(Normal Pressure Hydrocephalus:NPH)
髄液圧が正常でありながら脳画像(MRI)で側脳室を中心に著しい脳室拡大を示し、①小歩で不安定な歩行、②認知症(記銘力低下、思考緩慢など)、および③尿失禁を主症状とし、腰椎穿刺で髄液を排出すると神経症状が改善する。特発性と診断するためには、くも膜下出血、髄膜炎、頭部外傷などの脳室拡大をきたす病気を除外しなければならない。特発性NPHは60歳以上の高齢で発症することが多く、診断されれば、脊髄腔(腰椎レベル)―腹腔シャント手術により治癒する。
5.その他
神経ベーチェット病、ビタミンB12・葉酸欠乏で認知症を生ずる。薬物による認知症も重要である。ベンゾジアゼピン系睡眠薬、抗不安薬など覚醒レベルを低下させる薬物は認知症、せん妄を生じ易い。アルツハイマー病でアセチルコリン系の低下が存在することから、抗コリン薬が認知症を生ずるリスクが問題とされるが、著者自身の長年に亘るパーキンソン病の治療経験では抗コリン薬(トリヘキシフェニディル)で認知機能が低下した患者は経験していない。いずれにしても、認知症あるいはその疑いの患者については服薬歴をチェックしなければならない。
13.認知症の危険因子
現在までに明らかにされた認知症の危険因子を表11に示す。これは認知症患者の50%以上を占める"アルツハイマー型認知症(DAT)"に関するものである。加齢が最大の要因であることは、多くの疫学調査から明らかである(本論文8に記載)。また高齢になるほど女性が増える性差も存在する。
表11 認知症の危険因子
- 加齢:最大の要因
- 遺伝子:約10%.アミロイド(APP)、プレセニリン、アポリポ蛋白E、ダウン症
- 発育:低学歴(8年以下)、虐待(16歳以下)、戦闘参加(若年期)
- 生活習慣:喫煙、高脂血症、肥満、高血圧(中年期).高炭水化物食
- 社会条件:孤独(配偶者なし)、地域社会活動不参加
- 合併疾患:糖尿病、うつ病、難聴、睡眠時無呼吸症候群、睡眠障害、頭部外傷既往
1.遺伝子
遺伝子が大きな役割を果すDATは約10%である。遺伝子のうち、アミロイド前駆体蛋白(APP)およびプレセニリンの遺伝子異常は、古典的なアルツハイマー病即ち初老期認知症にみられる。アポリポ蛋白Eの遺伝子多型ε4は、疾患感受性遺伝子として高齢発症を含めあらゆる型のDATに共通の危険因子である。ダウン症は、アミロイド前駆体蛋白の遺伝子が存在する21番染色体が3本存在するトリソミーであり、神経発達遅滞に加えて、10歳代から大脳に老人斑が出現し、40歳代から認知症が発現する。
2.発育・発達
低学歴者は認知症のリスクが高い。これは「7.脳の発達と老化」で述べた脳の神経回路網の発達と強化のプロセスから当然と考えられる。その逆に高学歴者は、脳にアルツハイマー様病変が出現しても症状は発現し難い。その他小児期の虐待被害者(battering child)や若年の戦闘参加者も認知症のリスクは高い。戦闘参加者については、米国の朝鮮戦争戦死者の解剖所見で、若年兵士に著しい動脈硬化がみられたという報告があり、これは生活習慣の一型と考えることも出来る。
3.生活習慣
動脈硬化症のリスクとなる生活習慣はほとんどすべてが認知症のリスクとなる。特に注目すべきは中年期のデータが高齢期認知症のリスクとなる点である。わが国の勤労者に義務付けられている労働安全衛生法に基づく定期健康診断では、血中脂質異常32.2%、血圧異常15.4%、血糖異常11%(2016年データ、厚生労働省労働衛生課資料)とメタボリックシンドロームおよびその予備軍は少なくない。生活習慣とぼけ(MCI)、そして認知症の関係は図8のように理解できる。
植木彰氏(故人)は認知症と食事の関係について詳しい研究を行ったが、そのまとめを表12に示す30)。最近の健康食品、サプリメントのブームをみると、「栄養素は食品でとる。サプリメントは無効(ビタミンE、C)が多い」というステートメントは貴重である。
表12 認知症と食事(植木彰, 200330)より作成)
- 栄養素の欠乏や偏食は危険因子
- ビタミンB群の摂取が少ない
- ビタミンC、E,βカロチンなど抗酸化物の摂取が少ない
- コレステロール、総脂質など脂質の摂取が多い
- 野菜、果物、魚の摂取は老年期認知症を予防
- 魚を1日1回摂取と全く食べない場合は5.3倍の危険率(オランダ)
- 魚(EPA)の摂取は脳梗塞を予防
- アルツハイマー病患者の食行動異常
- 極端な偏食、過食、小食
- 野菜は食べない、魚より肉好き、甘いもの好き
- 栄養素は食品でとる。サプリメントは無効(ビタミンE,C)が多い
4.社会環境
孤独生活、社会活動不参加は、「脳は使わなければ衰える」ことを示すリスク因子である。高齢者が特に注意を要する生活様式である。
5.合併疾患・病態
糖尿病が認知症の大きなリスクであることは近年明らかになった(2.生活習慣病(2)糖尿病参照)。その他日常生活では睡眠障害が重要である。1日7-8時間、しかも夜間決まった時間帯に充分な睡眠をとることが大切である。高齢者の不眠の主な原因を表13に示す。
表13 高齢者の不眠の主な原因(栁澤信夫,201731)より引用)
- 急性の精神的ストレス
- 環境の変化
- 精神疾患:うつ病、不安障害、統合失調症
- 神経疾患:認知症、パーキンソン病、脳血管障害
- 全身疾患:睡眠時無呼吸症候群、心不全、呼吸不全、夜間頻尿、慢性疼痛など
- 概日リズム障害:時差、交代性勤務
- 薬物:睡眠薬、β受容体遮断薬、テオフィリン、利尿薬など
- 嗜好品:アルコール、カフェイン(コーヒー、紅茶、緑茶など)
14.認知症の予防因子
認知症の予防効果が期待される日常生活の因子を表14に示す。運動の有用性については世界的に多くのデータが蓄積されている。基本は1回30分以上の有酸素運動を週3回以上行う。トレーニング・ジムでの運動、ジョギングなどを行う。通常の歩行や散歩は有効な運動には含まれない。歩行としては、「インターバル速歩」32)が勧められる。インターバル速歩は、ウォーミングアップとして大腿および下腿の屈筋と伸筋のストレッチを行った後、「ゆっくり歩き」を3分、「速歩き」を3分交互に行う。効果としては、体力増強、生活習慣病の一次・二次予防、うつの改善などが期待される。
表14 認知症の予防因子
- 運動:最大の効果、週3回以上
- 余暇活動
- 知的要素:ゲーム、囲碁、将棋、麻雀、絵画、陶芸、芸術鑑賞など
- 身体的活動:スポーツ、ハイキング、ダンス、ゴルフ、園芸、散歩など
- 社会的要素:地域・同業の会合、ボランティア活動、旅行など
- 食事
- 緑黄色野菜(ビタミンC)、ビタミンE
- 魚
- 飲酒(適量、赤ワイン)
認知症予防の運動には、ゴルフ、テニスなどのスポーツ、ジョギング、ハイキング、トレッキングなどの身体活動、芝刈りや落ち葉掃き、畑作業など各種の身体活動を含め、多くの種類の活動を行うほど、認知症になり難いというデータもある。
余暇活動としては、上に述べた身体的活動のほか、知的活動即ち趣味として各種のゲーム、絵画、陶芸など芸術的制作活動や鑑賞、さらに社会的活動として地域や同業者の会合、ボランティア活動も新たな経験のために頭脳を働かせる機会として有用である。これらの余暇活動は、MCIやボケの状態となってから始めるというより、中年期から将来の高齢期を見据えて趣味として持っておきたい。勿論認知症になってからも続けることにより、進行を遅らせることは期待できる。
高齢者が意図的に運動や余暇活動を続けるためには考慮すべきいくつかの条件がある。認知症の予防あるいは進行の緩徐化を目的に運動を行う場合は、趣味や楽しみというよりは訓練の要素が強くなる。それを精神的および経済的負担を軽減して、長続きさせるためには表15の諸点を配慮する必要がある。
表15 高齢者の運動訓練を長続きさせるために
- 利便性:近所、無料~廉価
- 楽しい:運動内容(コーラス、ダンス、スポーツ)、仲間
- 成果がわかる:運動機能(バランス機能他)、運動量の表示、体重、BMI、社会活動への参加
食事と認知症の関係については、表12に示してある。野菜特に緑黄色野菜および果物は意識的に摂る必要がある。魚の摂取量とアルツハイマー病発症率との逆相関は、ロッテルダム研究をはじめ欧米の疫学調査で確認されており、また魚の摂取(特にEPAを多く含む北海の魚)は脳梗塞予防効果もある。
アルツハイマー病患者が、肉好き、甘いもの好き、脂質摂取が多いなどが云われているが(表12)、高齢者、特に後期高齢者はサルコペニア予防のために肉食を過度に制限すべきではない。平成29(2017)年「国民健康・栄養調査」によれば、高齢者の栄養状態は、食事、身体活動、外出状況と関係する。そして65歳以上の低栄養傾向(BMI20以下)の割合は男性12.5%、女性19.6%であり、四肢の筋肉量は男女とも蛋白質摂取量が多く、肉体労働の時間が長いほど有意に増加するという結果が得られている。
飲酒については、ほとんどすべての慢性疾患の罹患、死亡率に飲酒有の集団でリスクが少ないとい結果はわが国の疫学で得られた知見である。ポリフェノールを含む赤ワインはアルツハイマー病のリスクを軽減させるという有名な疫学調査が発表された後、アルコール飲料一般の効用といわれた時期を経て、現在は赤ワインの有用性が再度注目されるようになった。
高齢者の認知症予防の生活習慣として、百寿者(100歳以上の者)の生活習慣が参考になる。認知症は発症後の余命が短いことから、百寿者の70-80歳頃の生活習慣は有意義であろう。健康・体力づくり事業財団は1993年に全国の百寿者の悉皆調査を行った。当時調査可能な全員からインフォームドコンセントを得て、1人ずつ保健師による訪問調査を行いその結果を太田らが分析した33)。百寿者の高齢期の趣味は、園芸、手芸、囲碁、将棋、邦楽、民謡、書道など主体的に頭脳、身体を働かせるものが多かった(表16)。
表16 百寿者の生活習慣 趣味(70~80歳頃)(太田壽城 他,201333)より引用)
また同じ時期の生き甲斐としては、男女ともに「働くこと」が最大であり、ついで「近所・友人との付き合い」、家族、旅行、仲間との活動、信仰などが多かった。
15.認知症の治療
1.薬物療法
アルツハイマー病の脳病変を阻止する根本的な治療は、まだ実用化されていない。大脳皮質の老人斑やアミロイドアンギオパチーの原因となる脳血管アミロイドの主要構成成分であるアミロイドβ蛋白、あるいは神経原線維の構成成分であるタウ蛋白の産生、凝集、沈着を阻止する治療法の開発は、いくつかは不成功に終わり、いくつかの治験は進行中である。
一方神経回路網の働きを維持するための神経伝達物質のコントロールは、いくつかの薬剤が実用化され保険適応となっている。アルツハイマー病ではアセチルコリン(Ach)を神経伝達物質とする系の活動低下がみられることから、Achを分解するコリンエステラーゼの阻害薬が症状進行阻止効果を示す。本邦では、ドネペジル、ガランタミン、リバスチグミンが使用できる。但しこれらの薬物は対症的治療薬であり、脳病変進行阻止効果を有しないことから有効期間はほぼ1年以内である。
また興奮性アミノ酸であるグルタミン酸の神経伝達が過剰興奮すると神経細胞死をもたらすことから、グルタミン酸NMDA受容体阻害薬メマンチンが中等度から高度のアルツハイマー病の治療薬として保険適応となっている。
個別の認知症症候に対する治療薬として、BPSDの行動症状に対する抗精神病薬、心理症状に対する抗うつ薬、抗不安薬、睡眠導入薬が用いられる。
高齢の認知症患者に対する多剤併用は、薬剤の副作用、無動を生ずることから、廃用症候群、ロコモティブシンドローム、転倒骨折などのリスクを高めるので、個人毎に充分な観察と患者の希望に沿って服薬管理をしなければならない。
2.非薬物的介入療法
認知症の進行を出来るだけ遅らせ、患者自身の生活満足度を維持し、精神的安定を得る事を目的とした日常生活療法である。
病態と経過の特徴から、患者が積極的に参加し、介入療法そのものを楽しみ、脳と身体を働かせるものであることが大切である。活動の場は種々であり、本書の各論3「認知症のケア」でケアの提供者、施設各々の立場から詳述されている。
本項では、アルツハイマー病を対象に開発、効果の検証が行われた脳機能賦活治療法のうち代表的なものを述べる。効果としては、ADL範囲の拡大、興奮や攻撃性の改善、うつ状態の改善、見当識・記憶の改善などが報告されている。但し、積極的な症状改善はBPSDに対する以外はエビデンスが少ない。しかし放置すれば認知機能、身体機能が急速に低下する疾患の性質上、症状の進行を予防するために、原因疾患に関わりなく認知症全般に対してこれらの介入療法が推奨される。評価の中心は参加者(患者)の満足度である。
1)回想法
米国のR.Butlerによって提唱された心理療法である。高齢者の思い出に対し治療者が共感的に受け入れる姿勢で意図的に働きかけ、精神的な安定や記憶力の改善を図る治療法である。
セラピストと患者が1対1で行う個人回想法と、6~8人のグループで行うグループ回想法に分けられる。回想のテーマとしては、"ふるさと"、"子供、成長時代"、"交友関係"、"家庭生活"、"趣味"などキーワードを使って話してもらう。1週間に1回50分を基本に行う。熟練したセラピストが指導する。
回想法の効果としては、抑うつ感の改善、不安の軽減、QOLの向上、人との交流の促進などが報告されている34)。
2)リアリティ・オリエンテーション(現実見当識訓練)
1968年にFolsomが提唱した治療法で、時間や場所の見当識障害を改善し、現実の認識を深めることを目的とする治療法である。現在いる場所や今日の日付などの質問を繰り返し、通常のADLを通じて対人関係や協調性を改善し、残存機能を賦活して認知症の進行を遅らせることを期待する。
方法は2種類あり、小グループで行うクラスルーム・リアリティ・オリエンテーションと、患者ごとに日常生活を通じて行う24時間リアリティ・オリエンテーションである。
アルツハイマー病では、CDR2(中期)までは認知症の進行に対して患者は恐怖感をもつので、見当識の改善や正しい確認が安心と喜びに結びつく。しかしオリエンテーション療法の効果がなくなると、かえって不安や混乱をもたらし、病状に悪影響を与えるので注意を要する。
進展した段階では、虚構も加わった過去の世界に安住する(例:療養施設から見える川を故郷の川と思い、近くの小学校から聞こえる歓声を自分の子供時代と重ねる)ことが、患者の精神安定をもたらす。
3)音楽療法
認知症に限らず、高齢者の生活環境(各種施設を含む)において音楽は以前から種々に用いられてきた。例えば各種のアナウンスに先立って短時間音楽を流したり、特定の共用スペースでバックグラウンドミュージック(BGM)を流すなどである。
十分なエビデンスはないが、受動的および能動的音楽療法は、興奮の改善などBPSDへの効果が報告されている。わが国では1995年に全日本音楽療法連盟(全音連)、現在は日本音楽療法学会が設立され、1997年には音楽療法士(全音連)の認定制度が発足した。
能動的音楽療法には、歌唱、合唱、楽器演奏、音楽に合わせてのダンス、筋力増強訓練、歩行訓練など種々なものがあり、情緒の安定化、自発性の向上、協調性の改善、問題行動の減少などの精神活動の改善に加えて、脳機能の全般的賦活、運動機能の改善などが期待される35)。
4)絵画療法
手工芸、書道などと並ぶ行動療法である。一定の理論に基づいて、老年精神科医、臨床美術士などにより実施される。臨床美術士は2004年に設立された日本臨床美術協会が認定する資格で、技術のほかに感性、専門知識を有し、セラピストの視点から絵画、造形の教室で指導する。グループ活動の中で認知機能とは異なる残存脳機能を賦活させ、結果を確認して喜び、集団の中で褒められるなど患者の精神活動の高揚および認知障害の代償機能の確認による患者の自信回復に役立つ。
図9は絵画療法の作品であるが、CDR3(高度認知症)の素晴らしい画は、認知症そのものを治療者がどう捉えるべきかを改めて考えさせる優れた作品といえよう36)。
5)運動療法
高齢者の健康維持および認知症予防のための運動内容及びその効果についてはこれまでに述べた。ここでは認知症における運動内容を述べる。
認知症高齢者は、行動範囲が狭くなり、日常生活活動も不活発となり、加齢も加わって急速に廃用症候群に陥るリスクが大きい。したがって、①関節可動域(ROM)訓練、②筋力増強訓練、③持久力増強訓練(歩行、ジョギングなど)、④ADL訓練(ベッドからの起き上がり、車いすへの移乗動作、歩行、トイレット動作など)など全般的な運動療法を、個々の患者の状況に合わせて実施する。患者に運動への意欲や興味を持たせる工夫と転倒への注意が大切である。
3.治療法研究の方向性
今後のわが国では一層高齢化が進み、"人生100年時代"を迎えるともいわれる37)。そして認知症は高齢者になると急速に増加する事実からは、認知症の予防、治療法の研究を一層推進することが求められる。認知症は一旦獲得された大脳の知的機能が、大脳自体の病変によって障害されることで出現するが、脳死のように大脳機能の全てが失われるものではない。残存する大脳部分を神経系の可塑性を用いて賦活させて、認知機能を回復させるのが大切な方法論となる。
そのような研究の方法論に、"機能回復神経学Restorative Neurology"がある。機能回復神経学は、"神経系の失われた機能を生理学的見地から明らかにし、薬物、機能訓練、神経刺激など種々な有効な方法を選択し、残存神経機能の賦活、代償により能力の回復を計る"学問である。神経機能の回復という臨床の課題に、基礎的な神経科学の知見を系統的に応用することにより治療効果をあげようというもので、従来の認知症の非薬物的介入療法が経験的な知見に基づくものであったのに対して、新しい可能性を開くことが期待される。
機能回復神経学は、1985年ノーベル医学生理学賞受賞者のJ.C.Ecclesらによって提唱され、わが国では1989年から「機能回復神経学研究会」が神経内科、神経生理学、リハビリテーション医学、整形外科の専門家を発起人として結成された。機能回復神経学の手続きを図1038)に示す。
認知症の介入的治療を研究する場合、各症候の大脳責任病変を理解した上で研究計画を立て、結果を評価することが望ましい。特にこれから大脳磁気刺激など局所の興奮性刺激を用いたり、近赤外線スペクトロスコピー(光トポグラフィー)で大脳皮質局所の脳血流を継続的に簡便に記録出来るようになった段階では、各症候を局所脳活動と対比して研究を進める方向が発展すると期待される。そのような観点から、認知症研究の対象となる大脳機能とそれを担う大脳部位との対応、そして機能局在として理解しえない症候を表17に示す。
表17 認知症の介入的治療を計画するのに重要な大脳機能
- 目標にできるもの
- 前頭葉機能:意欲、関心、計画性、手続き記憶
- 頭頂葉機能:見当識(空間、時間?)、複合認知(視覚、触覚、空間定位)
- 側頭葉・海馬:記銘、記憶
- 不明だが重要なもの
- 探索行動、徘徊
- 対人関係
- 妄想、幻覚
16."ピンピンコロリ"から"人生100年、楽しく、しぶとく生きぬく"時代へ
認知症、特にその多くを占めるアルツハイマー病は、症状発現の20年以上前から脳内病変は始まり、小児‐成長期の学習や生活体験、成年期の高血圧や高脂血症、喫煙などの生活習慣、高齢期の家庭状況や社会生活など、いわば人生の通常の生活条件のほとんどすべてが影響し、加齢に伴い高率に発症する疾患である。自立した生活が困難になる状況から疾患といえるが、わが国の認知症の医療、研究の指導者たちによって結成された「認知症施策に関する懇談会」が2016年に公表した報告書「認知症と共生する社会に向けて」39)において、認知症は特殊な病気(少数)のみでなく、「脳や精神・身体の加齢に伴う老化現象と連続性がある」状態であり、誰でもなり得る高齢社会の問題であることを提言した。それに伴い、「認知症の人の人格と意志、さらにこれまでの長い人生が尊重される、尊厳ある社会の創造が認知症施策の前提」であると、認知症施策の理念で述べている。
本懇談会による提言は、これからの認知症の理解にとって極めて重要で適切なものであり、医療・介護・福祉に関わるスタッフすべてが理念として共有すべきものである。
認知症の末期は、認知症そのもので死亡することはなく、高度の認知機能低下による誤嚥による嚥下性肺炎が死因の第一位である。この末期の段階に、栄養補給のための中心静脈栄養、経管栄養などの処置、さらに人工呼吸を実施するか否かを決めるにあたっては、本人の病前の意志の忖度、介護責任者の意向を重視し、「高齢者の終末期の医療およびケア」に関する日本老年医学会の立場表明(2012)40)に配慮することが望まれる。
終末期医療についての国際調査報告で、ブランクとメリック(2005)41)は、日本における医療サービス決定における患者の自立の欠如を指摘している。認知症のリスクも念頭に高齢者は自分の死のあり方を考え、意思表明をしておくべきと考えられる。高齢社会の先輩である北欧においては、老年学の大きな柱に死生学(Anthropology)があり、日本でも文化的背景が異なることから、死生学を学問的テーマにすることが求められる。
かつて高齢者が健康に優れ、平均寿命が長い長野県において、"ピンピンコロリ"という、元気な状態から短期間に死ぬ心筋梗塞が望ましいという考えが提唱されたことがある42)。現在わが国では"人生100年時代"37)ともいわれ、一層の高齢化が予測されている。高齢化が進めば、認知症も増加しよう。「自分の健康は自分で守る」ことを国民全体のモットーとして、国民の健康増進運動「健康日本21」の行動規範ともなった「ブレスラウの健康習慣」(表18)43)を国民すべてが自分の規範として、楽しく、しぶとく生きて認知症の予防としてほしいと願っている。
表18 健康習慣(Breslow,1972)
- 適正な睡眠時間
- 喫煙をしない
- 適正体重の維持
- 過度の飲酒を避ける
- 定期的にかなり激しい運動をする
- 朝食を毎日食べる
- 間食をしない
実行している項目が多いほど、病気になる率が少なく、寿命が長い
なお文献末尾に、認知症、高齢者、終末期に関する参考図書を列記した。
文献
参考図書:出版の年代順に列記した。
プロフィール
- 栁澤 信夫(やなぎさわ のぶお)
- 一般財団法人全日本労働福祉協会会長
- 最終学歴
- 1960年 東京大学医学部卒
- 主な職歴
- 1965年 東京大学医学部附属病院助手 1969年 米国ハーバード大学医学部留学 1980年 信州大学医学部内科学教授 1993年 信州大学医学部附属病院長 1996年 同・医学部長 1997年 国立療養所中部病院・長寿医療研究センター院長 2001年 関東労災病院院長 2008年 東京工科大学片柳研究所長、医療保健学部長、
一般財団法人全日本労働福祉協会会長 現在に至る - 専門分野
- 中枢神経の運動障害、神経内科、脳の発達と老化
- 主な著書
- 「神経疾患の臨床 今日の論点」(中外医学社)、「臨床神経生理学」(医学書院)、「現代医学概論」(医歯薬出版)、その他
※筆者の所属・役職は執筆当時のもの
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