国民皆保険の維持には感謝と努力が不可欠(行天 良雄)
公開月:2023年7月
シリーズ第6回長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして
人生100年時代を迎え、一人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第6回は、医事評論家の行天良雄氏をお招きしました。
占領軍の雑役として激動の時代を見る
大島:今号対談には、医事評論家の行天良雄さんをお招きしました。行天さんは1926年生まれの97歳。千葉大学医学部に入られ、太平洋戦争を挟んで卒業。臨床に進まずNHKに入社し、保健・医療・福祉一筋に番組の企画制作に携わってこられました。ジャーナリズムの道へ進むきっかけは何だったのでしょうか。
行天:敗戦という重大な出来事を挟んでいますので、簡単な話ではありません。日本は戦争に負けて掌を返したように国が変わりました。1945年8月15日の敗戦の日、私は千葉大学医学部の学生でしたが、住まいのあった横浜は焼け野原で、勉学どころでありませんでした。とにかく食べ物ほしさから、私はマッカーサー連合国軍最高司令官が滞在した横浜のホテルニューグランドで働き始めました。マッカーサーが滞在したのはわずかな期間でしたが、ホテルには第8軍というアメリカの直接の占領軍が入っていて、勤めたというよりもただ働きのようなアルバイトです。Kレーションという戦闘糧食、いわゆるお弁当で、当時ものすごい価値があったのですが、それを1日に2個もらえるということで雑役として働いたのです。
大島:日比谷にあったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)ではなく横浜ですか。
行天:簡単に言いますと、GHQの下には民政をみるグループと軍事をみるグループがあるのですが、民政のほうです。
大島:民政局の局長はホイットニーですね。日本国憲法の草案作成を指揮した人物と記憶しています。
行天:よくご存じですね。若い人ではマッカーサーを知らない人もいるくらいです。マッカーサーのことは遠くから見ていただけですが、ホイットニーには会う機会がありました。
皆保険導入はアメリカの夢だった
行天:私は学生服のまま働いていたので、服にメディカルの「M」のマークを付けていました。占領軍の若いエリート将校がそれに気づき、「それはなんだ?」と聞いてきました。「大学で医学を勉強してる」と答えると、「一人ひとりの病気を診るのもいいけれど、これからの日本には、結核、栄養失調、精神病対策、こういう大きなものをみる目が必要だ」と言われました。大学では公衆衛生学を学んでいましたが、要するに公衆衛生の向上が必須ということですね。
大島:名古屋大学医学部の先輩で、厚生省三局の局長だった小林秀資さんに「なぜ役人になったのですか?」と聞いたところ、「医師は一人ひとりの患者を診るが、役人になれば国民全体をみることができる」と言われて感心したことがありました。行天さんは医師として個別に患者を診るより、ジャーナリズムの道に進めば、より多くの人を救える、影響を与えられると考えたのでしょうか。
行天:少しずつそんな気持ちになっていきました。救うなんて大きなことは言えませんが、ジャーナリズムが社会へ与える影響は非常に大きいですからね。
占領軍の医療福祉部門の委員会などでは、お茶や水を運ぶ仕事もしました。用もないのに会場をウロウロして耳をそばだてて情報収集です。「日本に皆保険を根づかせたい。アメリカのようになってはいけない。日本をもっと助け合い、支え合う国にしたい」と繰り返し語っていました。私はこれを聞いた時、こんな制度は実現するのだろうかと思いました。とにかくその時のディスカッションの迫力は印象に残っています。大佐であろうが中佐であろうが怒鳴り合いです。
大島:その当時からアメリカでは皆保険導入は夢で、アメリカで実現できなかったことを日本で実現しようと考えたのでしょうか。
行天:日本を社会保障の理想郷にすることがアメリカの夢だったんですね。アメリカでは医師会の力が強くて実現できないから、日本で試したいと考えたのでしょう。だから、あれが国民皆保険の原点だったと思います。その後、朝鮮動乱をきっかけにアメリカの占領政策の大転換があって、それは頓挫してしまうことになります。しかし、アメリカ人が撒いた種は死んでいません。その後は厚生省の官僚たちに引き継がれ、1961年に国民皆保険がスタートしました。
占領軍の下働きからジャーナリズムの道へ
行天:私の仕事先は横浜から横須賀に移って、その後はGHQの近くの日比谷に勤務しました。これも下働きでまともな仕事ではありません。その目の前にあったのが、昔のNHK放送会館です。NHKは戦後、GHQに一部を接収され、要するにアメリカの情報機関でした。そこには民間情報教育局が入り、放送の検閲や指導などを行っていました。馬場さん(フランク・正三・馬場)という日系アメリカ人二世で、アメリカの国営放送・VOA(ボイス・オブ・アメリカ)のトップがいて、GHQとして来日し、民間情報教育局で働いていました。彼はNHKの戦後の放送番組企画や日本の民間放送設立に尽力した人です。勤務先の目の前にあるNHKに行ってみたところ、馬場さんから「お前は誰だ?」と声をかけられました。「たまたま来てみた」と答えたら、「こっちで働け」と言われて、馬場さんの下働きです。今度はちゃんと給料をもらえましたが。それがのちにNHKにつながるわけです。
大島:NHKがGHQに接収されていた時代から、NHKに縁があったわけですね。そのような経緯でジャーナリズムの道へ進まれたことに大変驚きました。
国民皆保険は支え合いの精神が原点
大島:行天さんがNHK時代に手がけた1981年放送の『あなたの明日を誰が看る』という番組があります。国際的な視点から日本の医療とそれを支える医療保険制度を扱ったもので、大変な反響を呼んだとのことでした。
行天:あれは本当に必死でした。3年かけて世界中を徹底的にリサーチして回り、関わったスタッフは100名にのぼる一大プロジェクトです。
大島:番組の結びは、「日本の国民皆保険は素晴らしい。だが、いつまで維持できるのか」でした。国民皆保険の継続について、当時から楽観視していなかったということですね。
行天:1961年に国民皆保険がスタートし、放送した1981年は20年の区切りの年でした。偉そうなことを言うようですが、当時から国民皆保険の維持は危ういと感じていました。なぜなら、私たち日本人には国民皆保険の素晴らしさへの感謝が欠けているからです。「ただより高いものはない」といいますが、どういう仕組みで医療費負担が軽減されているのかをきちんと認識するべきです。「支え合いの精神」を原点につくられた保険制度ですが、いつしか「当たり前」となり、健全に維持していくための努力を先送りし続けてしまったと思います。
大島:われわれ日本人は医療保険制度の破綻という認識が薄いことは確かです。今こそ国民皆保険の「ありがたさ」を再認識する必要がありますね。番組タイトル『あなたの明日を誰が看る』について、「看る」を看護の「看」にしたことにも、行天さんの強い思いを感じました。
行天:1981年当時は高齢化率10%ほどで「高齢化社会」でしたが、来たるべき「高齢社会」「超高齢社会」の大きな課題は、「看る」に象徴される介護と終末期の問題だと感じていたからです。
大島:「看る」は治療するだけでなく、ケアや看取りまで含んだ言葉です。40年以上前に終末期や看取りが今後の大きな課題になると予見していたことに驚きます。
臨床から高齢者医療へ
行天:大島先生は最先端の臨床の仕事から、高齢者医療や介護・福祉の視点を必要とする仕事をされていて、不思議な方だなあと思っていました。
大島:私はもともと腎臓移植が専門でした。社会保険中京病院から名古屋大学に移り、名古屋大学病院長の時に国立長寿医療センターが開設するからそちらへ移ってくれと言われました。私としては、ちょうど大学の独立行政法人化が進んでいる最中だったので「断ってもいいですか?」と聞いたら、「国立長寿医療センターは愛知に初めてできるナショナルセンター(国立高度専門医療研究センター)だぞ。断るなんてとんでもない話だ」と言われて移ったというのが正直な話です。泌尿器科医ですから当然、排尿障害などは診てきましたが、高齢者医療に取り組んだのは国立長寿医療センターに赴任してからです。ただ引き受けた以上は邁進しなければならないと、それまで専門だった臓器移植から離れて、高齢者医療に注力しました。
行天:例えば、予防医療や終末期医療の普及に尽力した日野原重明先生(聖路加国際病院名誉院長)は、高齢者医療の専門ではなく循環器内科の出身でしたから、必ずしもその道の専門家でなければならないということではないと思います。
大島:そうですね。超高齢社会の日本で全体の医療の方向性やあり方をみる点では、専門的なこだわりを持つよりも、ある意味、私のような外からの人間のほうが中庸の視点を持つことができてよかったのかもしれません。
行天:話がそれますが、さきほど排尿障害の話が出ましたので、今、自治体の庁舎や公共施設や一部のホテルなどで、男性用トイレにサニタリーボックス(汚物入れ)を設置する動きが広がっていますね。あんなことは夢にも思わなかったです。要するにパッドは女性も男性も含めて考えなければならない時代になりました。
大島:前立腺がんや膀胱がんなどの病気の影響や、加齢による尿漏れに悩む人が増えてきたということです。それだけ高齢化が進んできたということは間違いないですね。
生も死も与えられた運命の中の出来事
大島:私は77歳で喜寿を迎えました。行天さんからするとまだ小僧だと言われそうですが、やはり最近年を取った、先が見えてきたと感じることがあります。行天さんにもそういった「老い」やその先の「死」を考えた年齢はありましたか。
行天:実は、大島先生がおっしゃるようなことを感じたことはないんですよ。人の一生は運です。運以外に考えられません。私が運を強く感じた出来事は1963年の横浜・鶴見の脱線事故です。NHKの仕事が終わって新橋から横浜行きの電車に乗りました。いつもは前方の車両に乗るところ、その日はたまたま混雑していて駅員に後方の車両に押し込まれました。横浜に向かう途中、鶴見駅付近で電車がガタンと止まりました。その時は真っ暗で何が起きたのかわからず、止まった電車から飛び降りて帰宅しました。しかし、翌日のニュースでものすごく大きな事故だったことを知りました。前方3両目までの乗客で亡くなった人が多く、上下列車をあわせて160人以上が亡くなった大事故でした。私はなぜか助かって、翌日は何事もなく出勤しました。
大島:いつものように前方の車両に乗っていたら、命が危なかったということですね。
行天:もう1つあります。1985年の御巣鷹山の日航機墜落事故です。墜落した123便は羽田−伊丹便でしたが、その直前のフライトは福岡−羽田便でした。私はその福岡−羽田便に乗っていたんです。しかも、私が座った席は、次の123便ではすぐ後ろの隔壁が破裂して、機内に酸素がなくなり失速して墜落しました。羽田から帰宅したら御巣鷹山の墜落事故で大騒ぎです。まもなくNHKから電話が入って、「123便の直前の福岡−羽田便に乗っていたのはお前か?」と聞かれて、数時間前に乗っていた飛行機が墜落したことを知り息をのみました。
大島:まさに紙一重ですね。そういう経験をされて死生観はどうなるのでしょうか。
行天:死生観など全然ないですね。生も死も与えられた運命の中の出来事でしかないと思っています。これはすべて戦争の影響ですよ。疎開先でグラマン戦闘機3機に執拗に狙い撃ちされたことがあります。まるでサファリで追われる動物になった気持ちでした。米兵は面白半分、ガムを噛みながらバリバリ惜しげもなく撃ってくる。私は石橋の下に隠れながら右へ左へ逃げました。
大島:戦争はそれほどのインパクトを与えたのですね。年長の方に死生観を伺ってきて、これほど明快なご発言を聞いたことがありません。
行天:日野原先生の影響も大きいです。私は先生のかばん持ちをしていたのですが、世界内科学会議をやるから関係先への連絡係をやれというのが、先生がお元気だった頃の最後のオーダーでした。それが実現する頃、先生は125歳くらいになるんですよ。「やるのはいいですが、先生、生きておられますか?」と思わず聞いてしまいました。「なぜお前がそんなこと言うのかわからない」と私に言うんですよ。日野原先生は本気で実現しようと思っていたんですね。
大島:聖路加国際病院の側近の方からも日野原先生のそういったエピソードを聞いたことがあります。「老い」や「死」を意識しすぎることなく、与えられた使命をまっとうすること、目の前の今を生きることが大切であるということですね。最後になりますが、後進へメッセージをいただけますか。
行天:長寿科学振興財団は「長寿」という立派な名前を冠していますから、これからも「長寿」をとことん突き詰めていただきたいですね。
大島:そのような言葉はとても励みになります。誰もが「長生きしてよかった」と言える社会の実現に貢献できるよう努めてまいります。今日は貴重なお話をありがとうございました。
対談者
- 行天 良雄(ぎょうてん よしお)
- 医事評論家
1926年生まれ。千葉大学医学部卒業。NHKに入社後、一貫して健康と医療・福祉問題の番組の企画・制作に従事。その功績により保健文化賞、日本赤十字社天皇賞などを授与される。厚生省医療審議会委員をはじめ、日本病院会参与、国立国際医療センター顧問などを歴任。全国公私病院連盟顧問。医師臨床研修マッチング協議会顧問。著書に『看護婦が足りない』(岩波ブックレット)、『日本の条件9―医療:あなたのあすを誰が看る』(日本放送出版協会)などがある。
- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 公益財団法人長寿科学振興財団理事長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年7月より長寿科学振興財団理事長。
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