いつも元気、いまも現役(マスターズ陸上記録保持者 冨久 正二さん)
公開日:2019年6月21日 15時48分
更新日:2024年8月13日 14時34分
こちらの記事は下記より転載しました。
M100で60メートル16秒98 日本記録保持者は現在101歳
中高年でも参加できるマスターズ陸上競技で大会新記録を打ち出している101歳の冨久正二さんが広島県三次市(みよしし)にいる。2017年7月、冨久さん100歳のとき、中国マスターズ鳥取大会でM100クラス(男性100~104歳)60メートル16秒98の日本記録に輝いた(写真1)。広島マスターズ陸上競技でも、冨久さん98歳のときに出したM95(男性95~99歳)で100メートル27秒20と、100歳のときのM100(男性100~104歳)で30秒81の記録はいまだに破られていない。
昨年だけでも広島マスターズ、中国マスターズ、日本マスターズの大会でいずれも第1位の成績を残している。2016年には広島・中国の2つのマスターズで砲丸投げでも大会新記録を樹立した。
桜が満開の4月初旬、取材に訪れた広島県の内陸部に位置する三次駅からディーゼル電車でひと駅の八次(やつぎ)駅に、軽自動車で迎えに現れた冨久さんは黒のスポーツウェアに身を包み、さっそうと手を挙げた(写真2)。「いやあ、遠いところご苦労様です」と張りのある大きな声で出迎えてくれた。ご自身でマニュアル車を運転し、5分ほどで自宅に着いた。
8年前に奥様をくも膜下出血で亡くし、現在、冨久さんは1人暮らし。炊事・洗濯・掃除すべての家事を1人でこなす毎日。幸い同じ敷地に住む75歳の息子さん夫婦がいて、心配はない。
3年前、本誌に登場した京都市の最高齢スプリンター宮﨑秀吉(ひできち)さん(当時104歳)とはマスターズ仲間でツーショットの写真もある(写真3)。宮﨑さんはご健在だが、2016年の京都マスターズで現役を退いている。
病気が原因で戦死を免れ最愛の妻と出会う
冨久さんは1917年(大正6年)1月24日、兵庫県津名郡(現在の淡路島・洲本市)に生まれ、5歳までここで過ごした。その後、父親の転勤のため、兵庫県飾磨郡(姫路市郊外)、同県武庫郡(神戸市)、石川県と移り住んだ。小松商業学校に進学し、クラブ活動は弁論部、庭球部、野球部で活躍。卒業後、大阪の洋反物問屋に丁稚(でっち)で就職するが、3か月で夜逃げ、知り合いの小松市の表具店を経て、18歳で小松製作所機械場に就職した。
仕事は、現場の各機械の職工さんの作業カードを集めて賃金計算をする事務。このときに小松製作所に新しくできた野球部にマネージャーとして入部した。しかし、21歳のとき、召集令状が来て、広島歩兵第11連隊第7中隊に入隊した。
当時の軍隊は「鉄拳制裁(てっけんせいさい)」という往復ビンタが日常茶飯事だったが、上官になぜか可愛がられ、すっとぶなような往復ビンタが続いても、冨久さんには撫(な)でるようなビンタ。仲間から「冨久はええなあ」とうらやましがられたという。
3か月の訓練を終えて、軍用船に詰め込まれていよいよ中国に向けて出陣した。ある日、河南省杏花営付近で「敵襲あり」との連絡が入り、駆けつけ、ここで銃撃戦に遭遇した。戦闘後、のどの渇きに耐えかねて野井戸の水を飲んだところ、猛烈な下痢と腹痛を発症して野戦病院に収容された。ここで「赤痢」と診断され、入院となった。屋根はテント、寝台は戸板にムシロ、電気はなく、寝具は毛布だけ。
その後、いくつかの野戦病院を経て、肺結核も併発し、内地還送となり、九州・小倉、広島の陸軍病院と送られた。そのときの看護婦がその後、妻となる1歳年上のトシコさんだった。今でいう"恋愛結婚"だ。
かつての部隊はその後、全滅に近い状態となった。まさに病気が偶然の命拾いと幸運をもたらした。
幾度も強運に助けられ命をつなぐ
退院後、小松製作所に復職したが、すっかり会社の様子が変わってしまったことから、退職して大阪のサイレンを製作する会社に移った。そこで中国・東北地方のソ連国境近くの黒竜江省チチハル市のフラルキ地区で軍人・軍属の日常生活用品を扱う営外酒保(兵営外の売店)の仕事口があり、二つ返事で引き受けた。
そこで家族と3年過ごしたある11月の霧深い早朝、見たことのない日本軍の大部隊が集結していた。これは山下奉文(ともゆき)率いる大部隊で、冨久さんは部隊大佐から「わが部隊は間もなく国境近い方面に移動する。これから大変なことが起きる。君は家族を連れて即刻日本に帰りなさい」と言われ、帰国することにした。
冨久さんは手記『私の歩んだ九十年』の中でこう振り返る。「私はこれまでに3度も尊い命を助けられていることを思い出した。1度目は私が6歳の夏、兵庫県小部村の谷川の淵で友達と2人で泳いでいるとき、深みに吸い込まれあわや溺死の寸前、何かに手を取られ引き戻され助かったこと。2度目は昭和14年、北支事変で北支河南省杏花営での討伐戦に参加した際、赤痢に罹患、野戦病院に入院中、肺結核を併発と診断され、内地還送となり、遂に兵役免除となった。3度目は軍属として満州に赴き、ソ連国境に近いフラルキで勤務中、ソ連軍の満州進攻前、紙一重の差で家族ともども引き揚げさせて頂き......」
帰国後、八次駅勤務の助役(駅長の次の役)の紹介で国鉄に就職が決まった。当時、国鉄は人手不足が深刻で、助役も召集令状でいなくなる有様。入社わずか2年で国鉄本社の係長から「冨久事務掛(がかり)を助役に昇格」との言葉があり、異例の速さで助役となった。
そして運命の日、1945年8月6日。広島管理部へ業務連絡のため、朝5時50分三次発広島行きの電車に乗っていたところ、三次駅構内の現場長会議が急遽招集されたため、冨久さんは発車5分前に「すぐに下車して留守を頼む」と言われ、入れ替わり下車した。そして8時15分、広島市は原子爆弾で壊滅した。これを冨久さんは「天命による加護としか考えられない」と振り返る。
国鉄時代は、広島、岩国機関区と異動し、1961年には「広島鉄道管理局運転部総務課職員係(課員1級)を命ず」と辞令が下った。これは異例の大抜擢。この3年後には運転部総務課主任統計係長に昇進。さらに1969年には広島機関区事務助役、同年、副参事補になり全国を飛び回った。1970年には国鉄職員最高の栄誉である「特別功労章」を受賞し、皇居参拝、天皇陛下に拝謁(はいえつ)の栄を賜った。
1972年、55歳で国鉄を定年退職した冨久さんは三次市に新しくできた協同組合三次ショッピングセンター(みよしプラザ)に事務職として採用され、約20年間、第二の人生を働き続けた。就業規則など基本的な規則作成などスタート間もない職場の基本づくりに携わった。
みよしプラザを退職後もその達筆(写真4)を見込まれて地元の高校・中学の卒業証書・全国ねんりんピック大会の賞状などの筆耕(ひっこう)、生花店の花札書き、市役所の調査補助など毎日忙しく多彩な仕事を続けている。2002年には「事業所・企業統計調査の事務に精励され、その成績が極めて優秀でありました」と、総務大臣表彰を受賞している。
97歳でマスターズに参加 人生が再び動き出した
三次市内で開業している中国気功整体「健生館」の貞末啓視(さだすえけいし)さんが冨久さんを陸上競技に誘った人物だ。ここは単に施術をするだけでなく、ここに来るお年寄りが外出もせず閉じこもりになりがちなことから、年1回、旅行会を企画・運営してきた。奥様のトシコさんを亡くす1年前、鳥取砂丘への旅行会に参加したとき、92歳の冨久さんが砂丘の前を行く貞末さんを走って追い抜いた。これに驚いた貞末さんは5年後に冨久さんをマスターズ陸上に誘った。すると97歳になった冨久さんは「私の人生これからですね」と答えた。それがマスターズ参加の始まりだ。
そこから貞末さんが冨久さんのマネージャー兼コーチとなって近くの公園でのトレーニングが始まる。そして出る競技大会で連戦連勝を続けた。
冨久さんは夜9時に寝て朝4時に起きる毎日だ。「これまで2回ほど寝坊したことがありました。目覚まし時計のセットを忘れていたからです。6時になっても電気がつかないのを心配した息子が戸をたたく音で目を覚ましました」
起きるとまずお茶を飲んで、横になって腰をごろごろとほぐす。そしてペダルふみ300回、自転車こぎで汗を流す(写真5)。週1回の近くの公園でのトレーニングには20人ほどが集まる。70代、60代が多く、冨久さんはもちろん最長老でみんなの憧れの的(まと)だ。
「『ありがとう、ありがとう』を繰り返し唱えていると、言葉の波動が脳に伝わり、体内の水、血液が浄化・再生して健康体になり、心も豊かに、顔相も円満になって人間関係も円満になります。まさに『ありがとう』は魔法の言葉です」「『ありがとう』を言うと、神様が味方します」
取材後、再び八次駅まで軽自動車で送っていただいた。別れ際の握手はがっちり力強かった(写真6)。
撮影:丹羽 諭
(2018年7月発行エイジングアンドヘルスNo.86より転載)
プロフィール
- 冨久正二(とみひさしょうじ)(広島県三次市 マスターズ陸上記録保持者)
- 1917年(大正6年)1月24日、兵庫県津名郡(現・洲本市)生まれ。高校卒業後、小松製作所に入社。21歳で召集され、中国戦線を転戦するが、赤痢となり、野戦病院で療養し、肺結核も併発して内地還送となり、兵役免除。陸軍病院の看護婦のトシコさんと結婚。その後、国鉄に勤務し、原爆投下の日に命拾い。国鉄を定年退職後、自宅近くのスーパーマーケットで事務職として20年間勤務。卒業証書の筆耕などの仕事に忙しい毎日を送っていたが、93歳のときに奥さんを亡くし、以来、1人暮らし。97歳からマスターズ陸上に参加し、連戦連勝で日本記録を樹立。
編集部:冨久正二さんは2022年7月1日にご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。
転載元
機関誌「Aging&Health」アンケート
機関誌「Aging&Health」のよりよい誌面作りのため、ご意見・ご感想・ご要望をお聞かせください。
お手数ではございますが、是非ともご協力いただきますようお願いいたします。