いつも元気、いまも現役(長唄三味線奏者 杵屋響泉さん)
公開日:2019年4月17日 14時06分
更新日:2024年8月13日 14時35分
こちらの記事は下記より転載しました。
104歳の現役の長唄三味線奏者初のCDも発売
「もう年なんですよ、わたくし」と杵屋響泉さんはお茶目な笑いを浮かべた。104歳の方から「年」と言われて、思わず「えっ! はあ」と驚く。
「カメラを向けられると、硬くなってしまって、いつも皆さんから笑われます」と恥ずかしがる。大きな太い声だ。
長唄の演奏会は、今年1月に三越劇場で開催された東京新聞主催の「女流名家長唄大会」で祖父作曲の「四季の詠」を演奏し、4月にはソニー・ミュージックダイレクトから初のCD「一〇五 娘がつなぐ五世勘五郎の長唄世界」が発売された。
この録音は昨年9月から11月にかけて東京のスタジオで行われた。生演奏を大切にしてきた響泉さんにとって、スタジオでの収録は勝手が違い、毎週のようにリハーサルと録音を4曲繰り返し、体力的にも堪えた。「舞台と違ってお客様の反応もないし、音の響きも違うし」と戸惑い気味。しかし、「いい勉強をさせていただきました」と前向き。まさに現役の長唄三味線奏者だ。
五代目勘五郎の娘として伝えるのが長生きの仕事
2016年3月には、三味線奏者で作曲家でもあった父の没後100年を記念して、東京・紀尾井小ホールで「五代目杵屋勘五郎追善百年祭」演奏会を開催。娘の六響(ろっきょう)さん、孫の和久(わく)さんとともに演奏して大きな喝采を浴びた(写真1、2)。
長唄宗家の家系の五代目勘五郎(写真3)は明治時代を代表する長唄の名人。歌舞伎座や関西公演にも出演していた。終始三味線の新しい手(フレーズ)を考えている人で、即興的な創作を含めて300曲以上つくった。当時は譜面がなかったが、口伝えで現存するのは数十曲にのぼる。その作曲はドラマチックで程よい長さにまとめられ、序破急(じょはきゅう)(曲の構成)がはっきりしている。
「わたくしはきつい人間なものですから、静かな曲はあまり向かないんですよ。曲を弾きながら、父はこうしたかっただろうということが手に取るようにわかります。五代目の曲を正確に伝えていくことが、長生きをさせてもらっている今の仕事だと思っております」
五代目勘五郎は「芸人は信心する心を持たなければいけない」と言い、「日本一の三味線弾きになりますように」と願って、成田山で水垢離(みずごり)(水行)をしていた。舞台に上がるときには、懐に特注の小さなお不動様を入れて臨んだという。その言いつけから、響泉さんは東京の飛不動尊へのお参りを欠かさない。
「4つの時に父の三味線に合わせて『宵は待ち』を唄ったのが最初」だそうだ。娘を大変に可愛がったという五代目勘五郎は、大正6(1917)年に44歳の若さで亡くなる。同じ長唄の師匠であった母杵屋栄子さんは、東京で初めてできた女流演奏会「玉蘭会」のメンバーだった。
転地療養で小田原へ 関東大震災で定住
昔は数え年6歳の6月6日にお稽古事を始めると素養が育まれる(上達する)という風習があった。長唄が好きなおばあちゃんやお母さんであれば、子どもの手を引いてお稽古に連れてくるというような身近な音楽だったという。
一人娘の響泉さんは幼いころから肺炎を患ったり呼吸器が悪かった。喘息が悪化すると、医師から空気のいいところへの転地療養を勧められた。当時、栄子さんの元に東京まで稽古に来ていた威勢のいい芸者さんから「小田原は空気がよくて温暖でいいところですよ」と誘われた。
そこで大正12(1923)年の3月、短期間のつもりで母娘は小田原に移る。その年の9月1日に関東大震災が起こった。借りていた家の廊下の板が跳ね上がり、家の前の疎水にかかっていた石の橋も落ちてしまう被害にあったが、幸い火災は免れた。築地の自宅は全焼したため、小田原での定住を決めた。
落ち着くと、毎日母からスパルタの稽古が続いた。あまりにも辛く、「なぜこの家に生まれてしまったのか」と悩むこともあったというが、「不思議と辞めたいとは考えなかった」そうだ。12歳の頃から小学生のお弟子さんに稽古をつけ始め、長唄の師匠として約300人に教授し、現在も毎月の指導を続けている。
夫の木村孝さんの影響で長唄に深みをもたらす
昭和22(1947)年に、同じ寅年の木村孝さんと結婚。2人の娘に恵まれた。孝さんは詩人で、1968年に日本詩人クラブ賞の第1回を詩集『五月の夜』で受賞している(写真4)。
海と空と富士山が大好きな人で、真冬にも相模灘を泳ぎ、一升をかるく空けるという酒豪であった。文学仲間との交流が盛んで、自宅に招いては文学論に花を咲かせ、盛り上がると響泉さんに「一曲お聞かせするように」と頼んだという。
「主人から晩酌のときに、いいお話を聞くと感激しちゃって。これが人間なんだなあと、心が広くなりました。人間の喜怒哀楽が曲に盛り込まれて、三味線のメロディに表されています。主人にいろいろと教わって勉強するうちに、その想いを表現できるようになりました」(写真5)。
174センチという当時としては長身の孝さんは響泉さんと歩いているときに急に膝を折り曲げて目の高さを合わせると、「こんなに地面に近いところを歩いているのか」というような一面も持ち合わせていた。
「君の親父さん(勘五郎)は、これだけの作曲を遺(のこ)して大したものだ」と言った孝さんは、もともと長唄に造詣が深く、響泉さんの芸の一番の理解者であり、いつも応援し、舞台も欠かさずに観てくれた。孝さんの存在が、今も響泉さんを後押ししている。
2度もケガをするが驚異の復活を遂げる
2015年4月、100歳のとき、車で出かける際に助手席から滑って転倒し、右手首を骨折。三味線奏者にとって手首の損傷は致命的だ。翌月の演奏会ではギプスが取れず、泣く泣く出演を断念。リハビリに励み、7月にはテーピングを施して見事舞台復帰を果たす。翌年には転んで右膝を強打し、車いすとなったものの、翌月にはまた舞台復帰した。「驚異の復活」に、整形外科医も驚いたという。
90歳のときまで1人で東京まで出稽古に通っていた。
「年末の東京のそわそわした感じが好き。東京でも銀座や日本橋が好きで、歩く足も速くなります」と、ほとんど後遺症もなく、とてもエネルギッシュだ。
「正座ができない、手が動かないと、引退する方も大勢いらっしゃるけれど、わたくしは手が動くし、正座もできますので、もう少しさせていただきたいと願っております」
手を握ると、実に柔らかく温かだ(写真6)。「あなた様の手も柔らかくて男の人にはめずらしい。きっとまわりに気を使っていらっしゃるのでしょう。夫も柔らかい手でございました」
長唄を一曲弾くと嫌なことを忘れてしまいます
響泉さんは目が覚めてもすぐには起き出さず、朝9時頃に床を出る。だいたい10時に朝食をとり、新聞を隅から隅まで読む。テレビで相撲や水泳の番組を観たり、散歩に出たり、うとうとしている日もある。
お稽古日には正座をして数時間、お弟子さんに稽古をつける。
午後3時を過ぎると軽い昼食、そして6時半にはしっかり夕食をとる。食べ物では、てんぷら、お刺身、すきやき、栗、粟ぜんざいが好きという。1日の出来事や想いを欠かさず書いている「3年日記」は、もう5冊目だ。毎晩ゆっくりとお風呂に浸かり、そこで般若心経を唱える。
「亡くなった方のご冥福をお祈りしているのでございます」という響泉さんに、六響さんは「声が聞こえていて安心です」と、お経の声がバイタルサインにもなっている。
夜12時には床に入るというが、目が覚めると、次の演奏会に思いを巡らせ、自身の演奏曲を頭の中でさらったりする。
「長唄が大好きなんです。何をしていても、どこかで常に長唄のことを考えています。わたくしは長唄のおかげで、これだけ生きさせていただいております。長唄に生まれついて、離れられないのですね。どうかこの大切なものを伝えて、守っていっていただきたいと願っております」と、7月の長唄協会演奏会へ向けて、また稽古に励む。
撮影:丹羽 諭
協力/一般社団法人長唄協会
撮影協力/飛不動尊 龍光山正宝院
(2019年4月発行エイジングアンドヘルスNo.89より転載)
プロフィール
- 杵屋響泉(きねやきょうせん)
- 1914年(大正3年)11月15日、長唄宗家の五代目杵屋勘五郎の一人娘として東京・築地で生まれる。幼少期より呼吸器が弱かったため転地療養で小田原に移り住む。12歳より長唄の師匠として約300人に教授。1947年に詩人の木村孝と結婚。2人の娘に恵まれた。2005年には長唄協会より永年功労者として表彰され、国立劇場にて「賤の苧環」を演奏。2009年芸歴九十周年記念演奏会、2013年百乃壽(白寿祝)を開催。2016年、父の百回忌にあたり「五代目杵屋勘五郎追善百年祭」を主催。2017年には文部科学省より伝統長唄保存会、重要無形文化財長唄保持者に認定。2018年、富士フイルム「楽しい100歳。」Web企画に出演し、父作曲の「新曲浦島」を演奏。2019年、ソニー・ミュージックダイレクトから初のCD「一〇五 娘がつなぐ五世勘五郎の長唄世界」が発売。後進の育成に励み九十余年、現在は娘・六響とともに「響泉会」「響の会」を主催。長唄協会定期演奏会、長唄普及活動、NHKラジオなど出演。
転載元
機関誌「Aging&Health」アンケート
機関誌「Aging&Health」のよりよい誌面作りのため、ご意見・ご感想・ご要望をお聞かせください。
お手数ではございますが、是非ともご協力いただきますようお願いいたします。