いつも元気、いまも現役(トライアスリート/アイアンマン世界王者 稲田弘さん)
公開日:2021年1月29日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時24分
こちらの記事は下記より転載しました。
世界一過酷なトライアスロン アイアンマンレースを制する88歳
千葉市稲毛(いなげ)区にある稲毛インターナショナルトライアスロンクラブ(稲毛インター)。ここにアイアンマン世界王者の稲田弘(ひろむ)さん(88)が所属している。
世界一過酷なトライアスロン「アイアンマンレース」。オリンピックで競われるトライアスロンの総距離は51.5kmで、水泳(スイム)1.5km、自転車(バイク)40km、長距離走(ラン)10kmであるのに対し、アイアンマンレースは総距離226km。スイム3.8km、バイク180kmのあと、ラン42.2kmを走破する、まさに"鉄人"のみが制覇できるレースだ。
アイアンマン世界選手権は、毎年10月にハワイ・コナで開催される。世界各地で行われるトライアスロン大会の上位者のみが、世界選手権の出場権を獲得できる。稲田さんは2011年78歳(年末基準で79歳扱い)でアイアンマン世界選手権に出場して以来、9年連続で出場している。
さらに、2012年(80歳扱い)、2016年(同84歳)、2018年(同86歳)には、年代別世界王者タイトルを獲得。80代で3回の優勝という快挙を成し遂げた。
2020年7月には2つのギネス世界記録™に認定され、大きなニュースとなった。アイアンマン世界選手権2016年(83歳322日)と2018年(85歳328日)の最高齢完走の記録だ。
稲田さんがトライアスロンを始めたのは70歳。オリンピックディスタンスの51.5kmから始まり、ミドルディスタンスの131km、アイアンマンディスタンスの226kmと年を重ねるごとに距離を伸ばし、世界王者タイトル獲得、世界記録更新、最高齢完走。今もなお進化し続ける88歳は、世界のアスリートが注目する存在である。
トライアスロン6年目で味わった初めての挫折
稲田さんは60歳でNHKの記者を退職した。奥さんが難病指定の病気にかかり、看病のための決断だった。
「家内の病気で側を離れられない状態で、だからといって家の中に閉じこもってばかりでは体がおかしくなる。大学時代は山岳部、記者時代は山登りに夢中になっていたので、やはり運動がしたかった。たまたま自宅の向いにスポーツジムができて、退職して3日後に入会しました。そこで水泳を覚えました」
64歳のとき、水泳仲間と面白半分でアクアスロン(スイム+ラン)に出場し、そこで見た競技用のバイクに目を奪われた。「スイムランの出場者の半分はトライアスロン経験者。みんな競技用のバイクで会場に来るんです。それがカッコよくて憧れたんですよ」。69歳のとき思い切ってバイクを購入した。
トライアスロン初出場は70歳。バイク購入の翌年の千葉・幕張のトライアスロン大会だった。オリンピックディスタンスと同じ51.5kmだった。
以後、距離をどんどん伸ばしていく。75歳になると佐渡の大会に遠征し、131kmのレースに出場する。「思っていたよりいいタイムだったし、余裕もあった。もっと長くてもイケるだろうと自信がつきました」
満を持して、総距離226kmの長崎・五島のアイアンマンレースに76歳で挑戦。しかし、結果はランの中間地点で制限時間オーバーとなり失格。トライアスロンを始めてから6年目で初めての挫折を味わった。
稲毛インターとの出会いで劇的に向上を遂げた
長崎・五島のレースのあと、大きな石の上に腰かけてうなだれていた稲田さん。そこに大会の役員の1人が近づきアドバイスをくれた。「来年も出場するつもりがあるのなら、今のように我流でやっていたら同じ結果になる。千葉市には『稲毛インター』というトライアスロンクラブがある。そこで鍛えてはどうか」
稲毛インターはオリンピック選手も所属する名門のクラブ。稲田さんは76歳という年齢を考えて入会を3か月間迷ったという。「でもなんとかして来年はリベンジしたい。思い切って『入りたい』と言ったら、『会費さえ払ってくれればいいですよ』と軽く言われて(笑)、大喜びで入りました」
稲毛インターに入り、自己流だった稲田さんのトレーニングは質も量も一気に向上。
「オリンピアンと一緒に練習して感じたのは、練習する姿勢、顔つき、目の色が違うということ。バイクのコースでは、オリンピアンが『稲田さん、ついてきなさいよ!』と鼓舞してくれる。ものすごく嬉しいし、自分のMaxの力を出してついていこうと思う。近くでフォームを見て勉強できて、楽に速い、効率のいい走りができるようになった。飛躍的に力がついて、この年になってこんなに進化するのかと喜びがわいてきました。何より年齢を意識しなくなったし、気持ちの中では若い人と同じくらいと思うようになりました」
自信をつけた稲田さんは、2011年78歳で韓国・済州(チェジュ)島の大会(226km)を勝ち抜き、ハワイでのアイアンマン世界選手権の出場権を初めて獲得した。
アイアンマン世界選手権世界王者への道
初出場となった2011年ハワイでの世界選手権は、序盤のスイムで過呼吸により無念のリタイア。
「過呼吸の原因は"食べ過ぎ"です。受付が朝5時でスタートは7時。スタートまでの2時間、時間つぶしに食べたり飲んだりして、スタート直前にはお腹がタッポタッポ。泳ぎ始めた直後に過呼吸でもう息ができない。スイムの折り返し1.9km地点でドクターストップがかかってあえなく断念。その時のみじめさといったらないですよ。でも、次の大会でリベンジだというモチベーションにつながりました」
翌2012年79歳でタイ・プーケットの大会を勝ち抜き、2度目の世界選手権の出場権を得てハワイへ。結果は80-84歳のカテゴリーで15時間38分25秒という大会記録で初優勝した(実年齢は79歳だが、大会では年末基準のため80歳扱い)。制限時間17時間の中、余裕のゴールだった。この15時間38分25秒という記録は過去の80代の完走者の記録を大きく塗り替え、今も破られていない。
翌年2013年の世界選手権は制限時間オーバー。その後も世界選手権に連続出場を果たすも、制限時間オーバーで完走できない年が続いた。
「忘れもしない2015年の世界選手権。大会の規定でこの年は制限時間が10分短縮の16時間50分でした。ゴールはしたものの5秒オーバーの16時間50分5秒。花道に入って50メートルくらいで1度こけて、ゴール直前1メートルのところでまたこけて、結果5秒オーバーした。そのゴールがドラマティックだったと、世界中のメディアに取り上げられて、フェイスブックにたくさんの人からメッセージが入りました。それでモチベーションがいっきに上がった。その年からは自分のためだけじゃなく世界中の人の期待に応えなくてはという気持ちが強くなりました」
翌年2016年からは制限時間が元の17時間に戻った。「どうやら前年の僕のことがあったから、らしい」と稲田さん。2016年83歳(84歳扱い)で迎えた世界選手権は4年ぶりに完走。2度目の世界王者となり、最高齢完走記録も更新した。「前年であんなことがあったから、ゴールは万歳しながら駆け抜けました」とニッコリ。
2018年85歳(86歳扱い)で迎えた世界選手権でも完走、自身の持つ最高齢完走記録を更新した。85歳以上のカテゴリーは稲田さんがつくった。現在、稲田さんの他に85歳以上の出場者はいない。
今はもっと体が楽にできる方法を追求するとき
アイアンマン世界選手権10年連続出場をめざした2020年の大会は新型コロナウイルスの影響により中止となり、今は2021年の大会に向けてトレーニングを続ける毎日。稲毛インターは1週間のうち2日は休みだが、休みの日も自主練習を欠かさない。トレーニングのある日は朝4時半起床、6時から午後4時過ぎまで集中して練習に励む。
「幸か不幸か、たまたま自主練習中に足を痛めてしまって、ランニングを休んでいます。そういうこともあって、今はこれまでと違うやり方を模索するチャンスかもしれない。例えば、"もっと楽に速く走れる方法"。最近は1日1日で体力も筋肉も落ちてくるのがわかります。これは人間の宿命です。それをいかに食い止めるか。それが日常生活の中で自分に課しているテーマです。そういう意味では、今はもっと体が楽にできる方法を追求するとき。そういう時間を与えてくれたコロナにむしろ感謝しています。
練習がとにかく楽しいです。毎日いろんなことを試して、今まで使わなかった筋肉を意識して使ってみる。そうすることでものすごい効果を感じることがある。昨日より今日がいいなと、毎日が発見です。それが本当に嬉しくて、『俺は今生きてるー!』って叫ぶときもあるんですよ(笑)。この年になってもできるということが嬉しくてたまらない。それがトライアスロンを続ける原動力になっています」
撮影:丹羽 諭
(2021年1月発行エイジングアンドヘルスNo.96より転載)
プロフィール
- 稲田弘(いなだひろむ)
- 1932年11月19日生まれ。稲毛インターナショナルトライアスロンクラブ所属。NHKの放送記者を定年退職したあと、60歳で水泳を始め、69歳からロードバイクを始める。翌年70歳でトライアスロンに初出場し、79歳目前の2011年に総距離226kmのアイアンマン世界選手権に初出場。以来、世界選手権に9年連続で出場。2012年(年末基準で80歳扱い)、2016年(同84歳)、2018年(同86歳)、と年代別世界王者タイトルを獲得。アイアンマン世界選手権において世界最高齢で完走した2016年(83歳322日)と2018年(85歳328日)の2つの記録でギネス世界記録™に認定された。
2020年の大会は新型コロナウイルスの影響で中止になったが、世界選手権連続10年出場をめざし、自身の持つ世界記録を塗り替えるべくトレーニングに励む毎日。
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