いつも元気、いまも現役(看護師 細井恵美子さん)
公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時03分
こちらの記事は下記より転載しました。
人と接する介護の仕事は「楽しい」
京都府木津川市の小高い丘の上にある特別養護老人ホーム「山城ぬくもりの里」を訪れると、細井恵美子さんがロビーに颯爽と現れた。「今日は遠いところご苦労様です」と快活に挨拶。
11年間ここの施設長を務め、2012年からは顧問として、家族や職員の相談、職員教育、地域活動を手伝ってきたが、2020年11月、左大腿骨を骨折。3か月間、入院してリハビリに専念した。翌年3月に復帰後から、週3日(月・水・金)に変更し、朝10時から夕方5時半まで、入所者の食事介助、話し相手、手芸や脳トレなどを手伝っている。45年間住んでいる自宅は宇治市にあり、朝8時半に家を出て、9時半過ぎには職場に到着する。
利用者は130人、要介護度は平均4.3と高く、平均年齢86歳。最年長は103歳、細井さんより年上の方も数人いるが、同世代や年下の方が多い。そっとお年寄りのそばに寄り、手を添えてのぞき込むようにして話しかけると、お年寄りに表情がよみがえる。
「その方を元気にしているのは何か、一人ひとりの情報を大切にし、それを組み立てて話していく。たとえば『おとうさん』という言葉を繰り返す方は、若いときにおとうさんが大好きだったのだろうと、その話を引き出すようにします。時には大声で興奮する方もありますが、制止したり叱責したりしないで、『そうね、そうね』と共鳴しながら気分転換を図ります。記憶障害のある方はいま興奮したことも瞬間に忘れてしまうので、静かにそのときを待ちます。一人ひとりの人生の情報をできるだけ集めて会話に生かすことを考えています。30歳後半から教務や看護管理の仕事で現場を離れてしまったので、いま介護の現場の仕事はとても楽しい。話をしたいという眼差しを感じたらタイミングよく話しかけます」と、鋭い観察力が持ち味だ。
なぜ女子1人だけ勤労動員かといまでも疑問
細井さんは1931(昭和6)年4月18日、京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)で生まれ4歳年上の兄と2人きょうだいとして育った。家は米づくりの傍ら養蚕をしていた。決して豊かではない家庭であったが、当時はそれが普通だった。自分の小遣いにと、国民学校高等科1年のとき、学校帰りに新聞配達をしたこともあった。
高等科2年の4月から、クラスの女子でただ1人、勤労動員に指名された。毎朝6時に家を出て、汽車に乗って西舞鶴まで通い、ホームの掃除や線路のごみ拾いなどの雑用をさせられた。8月15日の玉音放送は駅の待合室で聞いた。
なぜ自分が勤労動員に選ばれたのか納得のいく説明はなかった。誰がどういう意図で選んだのか知りたかった。その気持ちはいまも引きずっている。やがて終戦を迎えると勤労動員も終わり、17歳の兄も予科練から戻って農家の後継ぎとなった。
多くの病院を経て37歳で総婦長に
細井さんは父親から「何か手に職を」という勧めもあって15歳で国立舞鶴病院看護婦養成所に入学し、卒業すると同病院に勤務した。精神科病棟に配属されたときのこと。当時は施錠や身体拘束が当たり前の時代。ある日、歌の好きな患者さんが「外に出てみんなで歌を唄いたい」というので、施錠を外し、希望者を外に出し、みんなで歌を唄った。大陸からの引揚者、シベリヤに抑留されていた元兵士もいて、抑留中に唄ったロシア民謡や日本の童謡などを唄って盛り上がった。ところが3回目のとき、病院から「事故があったらどうするのか」と叱責されて中止となった。
19歳で結婚、出産後、夫が肺膿瘍(結核の既往)で入院。感染を心配して子どもを実家に預けて知人の紹介により京都市九条診療所で働くことになるが、家族を支えるためには若いうちに勉強しておきたいと考え、東京に出た。転々としながら夫の父親を頼りに三重県に落ち着き、三重県高茶屋県立病院に嘱託看護職員として勤務。33歳のとき、子どもが実家から小学校に入学するために実家に戻り、丹後中央病院に就職。病棟主任、教務主任を経験した。
35歳のとき看護の視野を広げようと、京都南病院に転職。当初病棟主任となったが、当時の婦長が結婚退職することとなり、基準看護を採用するための準備に駆り出され、総婦長代理から翌年からは総婦長となった。37歳のときだ。
いち早く訪問看護を始めた
医学が急速に進歩し、様々な診断機器が臨床に導入されるようになり、民間病院の医療も様変わりしていく時代だった。京都南病院でも人工透析の導入、ICU・CCUの整備が始まった。新しい医療技術が安定するまでは、患者の安全と効果を検討しながらの毎日だった。透析や循環器疾患の看護には聴診器が必要と看護婦にマイステートを進めた。
1972年、訪問看護の最初の患者さんは72歳の脳卒中後の患者さん。家族に退院を告げると「自分は働きに出るし、家内はパート、子どもは小学生。こんな寝たきりのじいさんの世話を家ではできません」と抵抗された。これに細井さんは「もしダメだったら、また入院してもらうから、いっぺん帰ってみましょう」と説得した。
おおよそ11時半から12時半までの1時間訪問して、清拭、食事介助、排泄処理、口腔内ケア、シーツや寝巻の交換、水分補給などをした。費用はすべて病院持ちだったが、せめて交通費として500円の負担をお願いしたところ、医師の往診は診療報酬で賄われていたため、患者負担はない。「なんで看護婦にカネ払わなあかんのか」と拒否された。ところが2か月後、「あのときはすまんかった。看護婦が来てくれるのでお医者さんより助かるわ」と500円をいただけるようになった。
生活全体を見て必要なことを実行
前に進むとき、時には悲しい場面にも出会う。老人医療費無料化により社会的入院と待合室のサロン化などが問題になっていた。急性期医療にも支障を来すようになり、長期入院患者の退院を進めなければならず、家族を面談していたときのこと。いきなり「ドスン」と大きな音がして、見ると病院の3階から飛び降りて命を絶ってしまったことがあった。家族が来て「おじいさんがゆっくり休める部屋はありません。おじいさんの部屋は受験を控えた子どもの勉強部屋になっています」と言われた患者さんは絶望してしまったのだ。
医療は病気を治すだけではなく、その人の生活全体を見ていくことの大切さを痛感した。そして「患者さんに必要なことは実行する」という細井さんの信念と裏付けのデータを持った説得力、そして実現までのリーダーシップが病院を変えていった。
「医療と福祉の統合」という信念
戦後の教育制度改革のはざまからこぼれ落ち、口惜しい思いをしてきた細井さん。学歴コンプレックスの一方で衰えぬ向学心から、42歳で佛教大学通信教育課程文学部国文学科に入学した。47歳の卒業時の卒論は「徒然草の無常観」。49歳で再び佛教大学・社会福祉学科入学、卒論は「医療と福祉の統合」と、その後の展開を暗示するものだった。
さらに時代の先取りは続く。44歳で身体拘束のない看護に取り組み、52歳で京都南病院に在宅療養部を開設した。訪問看護を始めて実に10年が経っていた。国が訪問看護を制度化したのはさらに10年後となる。病院ボランティア導入(京都南ボランターズ、100人以上が参加)も早い。
57歳のとき京都で初めての老健施設「ぬくもりの里」を設立して副施設長となり、京都府老健施設協議会副会長として活躍した。入所、ショートステイ、デイケア、訪問看護ステーション、在宅介護支援センターの5機能を総合的に提供する構想は、卒論テーマの「医療と福祉の統合」に通ずるものがある。こうした実績が評価されて地域保健医療功労知事賞、訪問看護功労賞、京都市民奉仕活動奨励賞、京都ヒューマン大賞などを受賞した。
「定年制はよくありません」
「年寄りはトイレが近くなることを恐れて、水分補給を控える傾向があります。そうすると脱水から無気力になったり、もの忘れの原因なることがあります。1日に1,500mlは必要です。何回もトイレに行くのもリハビリです」。細井さんはいまも認知症カフェや介護予防事業「元気モリモリ」を手伝いながら地域の人と活動を続けている。
最後に強調したのは定年制についてだ。「定年制はよくありません。定年があるから現役時代にお金を稼ぎ、退職金をたくさんもらって老後の安心にしようとします。生涯現役でそこそこの暮らしができるなら、そんなに現役時代にお金に執着しません。働く生きがいや夢をストップしてしまう定年制はよくありません」。まさに細井さん自身がそれを体現している。
撮影:丹羽 諭
プロフィール
- 細井 恵美子(ほそい えみこ)
- PROFILE
1931(昭和6)年4月18日、京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)で生まれる。国立舞鶴病院看護婦養成所入学、17歳で卒業、同病院勤務。19歳で結婚。22歳で京都市九条診療所、慶應病院、三重県高茶屋県立病院、丹後中央病院勤務。36歳で京都南病院病棟主任。同病院総婦長および法人理事。人工透析、ICU・CCU導入、夜間透析、訪問看護開始。42歳で佛教大学通信教育課程文学部国文学科入学、44歳で身体拘束のない看護に取り組む。49歳で佛教大学・社会福祉学科入学。京都南病院に在宅療養部開設、病院ボランティア導入。57歳で老健施設ぬくもりの里設立、副施設長、京都府老健施設協議会副会長。70歳で特養山城ぬくもりの里施設長、81歳同顧問。現在も顧問として介護現場に携わっている。京都ヒューマン大賞受賞。
※役職・肩書きは取材当時(令和5年10月13日)のもの
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