いつも元気、いまも現役(刃物専門店・木屋(きや)八代当主 加藤俊男さん)
公開日:2019年7月26日 09時00分
更新日:2024年8月13日 14時33分
こちらの記事は下記より転載しました。
長男の"スペア"として次男は木屋に入社
大正12(1923)年に起こった関東大震災で日本橋界隈は焼野原になってしまった。それまで木屋の店舗と住まいは一緒だったが、この震災を機に住まいは郊外に移して店とは分けるようになった。加藤俊男さんの父は目黒に300坪の敷地を借りた。その家で大正15(1926)年7月30日に次男として生まれた。下目黒小学校に通い、卒業の時、加藤さんは総代で卒業証書を受け取ったという。
兄と同じ府立第一商業高校に進学した頃、太平洋戦争が始まった。やがて戦局が徐々に厳しさを増してくると、加藤さんの父は「東京も空襲されるかもしれない」といって、さらに郊外の世田谷区に550坪の土地を買って移り住むことになった。加藤さん17歳の時だ。
案の定、目黒の家は空襲でまる焼けとなった。「親父(おやじ)は目先が利いているというか、神がかったところがあった」と加藤さんは振り返る。
その後、早稲田大学の専門部の電気通信科に通った。ハンダ付けでラジオづくりが好きだったからだ。しかし、早稲田大学の理工学部に入るのは難関で、特に電気工学科は入学がむずかしかった。
そこで比較的入りやすい応用金属学科に進学することとなった。これは木屋の御曹司だからというわけではなかった。
早稲田大学では鋳物研究所(通称・いもけん)に通った。やがて大学卒業した友人は石川島播磨、三洋電機、東芝、日本軽金属などの一流会社に就職した。しかし、後継者である兄が肺病で入退院を繰り返していたのを不安に思った父は、加藤さんを"兄のスペア"として木屋に入社させた。
新しい包丁づくりに研究と工夫を続けて
入社後、将来の幹部になるために、会社のあらゆる部門を知る必要があると、小売部の売り場に立ったり、卸や仕入れ部門などを回った。売り場に立っていた頃、お客さんから「よく切れるステンレス包丁はないか」とよく聞かれた。加藤さんは「よく切れる包丁は錆(さ)びる。錆びないステンレス包丁は切れない」。それは当然のことと思っていた。
しかし、お客さんからたびたび同じことを言われることから、大学時代の参考書『輓近鐵鋼及特殊鋼(ばんきんてっこうおよびとくしゅこう)』(濵住松二郎著)を改めて読み返してみると、硬くてよく切れるステンレス鋼があることを知った。
「(大学時代)教師に『ここからここまで覚えないと卒業できないぞ』と言われて読むのと、『これがものになればひと儲けできるぞ』と思って読むのとでは、同じ書物でもこんなに違うものかと我ながら思うほど全く違った本となった」と述懐する。
そこで金属の見本市でカタログを手に入れて、見本を注文すると、「5トン単位でないと出せない」という。包丁の材料200グラムに5トンはないだろうと、諦めかけたとき、オーストリアの製鋼会社ショーラーブレックマン・フェニックス社と出会う。
「1トン以下でもいい」というありがたい申し出に、初回は300キログラムほどを手に入れ、千住の工場に持ち込んで、試作品をつくった。
これが「よく切れて錆びないステンレス包丁」フェニックス・エーデルワイス包丁の誕生秘話だ。
アルプスに咲く高山植物「エーデルワイス」をブランド名として起用した。
「ステンレス包丁をつくって販売したのはうちが最初でしょう」と加藤さんは胸を張る。現在、全国の百貨店70社以上と取引しているが、そのきっかけとなったのはこの「エーデルワイス包丁」だという。
初代・加藤伊助は木屋から暖簾分けして刃物商に
豊臣秀吉の全盛期、木屋の初代は御用商人として薬種を扱い大阪城に出入りし、「林」という姓を名乗ることを許された。当主は徳川家康が江戸を本拠地とする動きを見て、「これから商いを伸ばすのは江戸に限る」と、弟を江戸に送り店を開かせた。関ヶ原合戦の実に7年前のことだ。「林」を2つに分けたので「木屋」となったという。
木屋は小間物(こまもの)、ろうそくなどの商品を扱う総合商社のようなもので、江戸城への出入りも許された。
「刃物の木屋」の創業者・加藤伊助は伊勢桑名の出身で、本家の林家の木屋に奉公し、その働きぶりを認められ、丁稚(でっち)、若い衆(しゅ)、手代(てだい)、番頭と勤め上げ、本家の隣に「木屋」の屋号で開店を許された。最初は本家と同じ小間物を扱っていたが、お客さんがだぶらないように別の物を売るために、出身地桑名に多い刃物を扱うようになった。
本家木屋は取扱商品を変えれば木屋の暖簾分けを認めていた。室町一丁目に三味線木屋(現・岡野楽器店)、小伝馬町に紙や帳簿の木政(木屋政吉の略)もあった。
江戸時代の『熈代勝覧』に日本橋通りに木屋が4軒並ぶ
ドイツ・ベルリン国立東洋美術館で偶然発見された『熈代勝覧(きだいしょうらん)』は文化2年(1805)の日本橋の様子が描かれ、創業約10年の木屋4軒が描かれている。
一番右の「井桁に木」の商標は現在の木屋と同じで、小道具問屋。左の「山に木」の木屋も小道具問屋。また左の「釜に木」の木屋は算盤・小道具問屋。さらに普請中の木屋には「普請の内、蔵にて商売仕候(つかまつりそうろう)」と書かれた下げ札がある。暖簾分けの際は、微妙に業種を変え、火打ち石、陣笠など各店は特色を出している。
しかし、ここに描かれた江戸の賑わいは文化3年(1806)の通称・牛町大火(丙寅(へいいん)の火事)で焼失してしまった。
「刃物博士」といわれ講演や執筆に忙しい毎日
「早稲田の応用金属出なんてこの業界にはいませんからね。ずいぶん幅をきかせていただきました」と微笑んだ。
「刃物博士」と言われるのは『刃物あれこれ─金属学からみた切れ味の秘密』(2013年、アグネ技術センター、朝倉健太郎氏との共著)を読むとよくわかる。
日本刃物工具新聞の「古今東西」という欄の執筆も30年約1,200回を数える。テーマは日本の刃物と海外の刃物、刃物以外も取り上げるという多彩な内容だ。
最近では、専門誌『金属』(2017年7月)に「究極のステンレス包丁」で、「窒素(N)を添加したマルテンサイトステンレス鋼」について論文を寄せている。ステンレス鋼の中に窒素を入れることによって「硬いうえに錆びにくい」というすばらしい性質を持つ包丁の開発について触れている。
93歳の今も週2回木屋に出社 包丁ブランド「團十郎」を守る
2009年に17年間続けた木屋の社長を兄の三男に譲り、現在は取締役会長となった。加藤さんの息子は常務取締役になっている。
今でも週に2回ほど木屋本社に出社する。行きは電車を乗り継いで出社し、帰りは別の路線の電車に乗り、行きつけのスーパーマーケットで買い物をしてバスで帰るのがいつものコースだ。
24年前に妻を亡くし、現在は1人住まい。近々、娘の子、つまりお孫さんが一緒に暮らすことになるという。
60年ほど前から始めた小唄も今年2月、日本橋・三越劇場で公演した。市川海老蔵も踊りを披露した。木屋の包丁の銘柄に「團十郎」がある。十二代目市川團十郎に團十郎銘の包丁を贈ったとき、「私は左利き」といわれ、左利き用に作り直したという。
そもそものきっかけは病弱だった兄の代わりに日本橋の旦那衆とのお付き合いで、「小唄でもやりなさい」と誘われたこと。日本橋にはそうした旦那衆の交流が今でも生きている。
急速に変わる日本橋に進化を続ける老舗の伝統
近くに金物通りという金物を扱う商店街があり、その一角に金山神社がある。ここは昭和のはじめ東京金物同業組合が岐阜県の一宮である鉱山の神様を祀(まつ)る南宮大社から分霊した神社で、金物を扱う商店の信仰を集めていた。加藤さんは長い間この神社の代表役員を務めてきた。
しかし、時代は流れて金物商店もなくなり、神社は神田明神の傘下に入ってしまった。
「日本橋の町並みは急速に変わっています。木屋の店も私の代だけでも3回も場所を移しています。人生を振り返ると、兄のように病弱でもなく、健康でやってこられました。家も移り住んで焼けずに済み、ラッキーだったのでしょう」と笑った。
時代は大きく変わったが、進化を続ける老舗の伝統は息づいている。
撮影:丹羽 諭
(2019年7月発行エイジングアンドヘルスNo.90より転載)
プロフィール
- 加藤俊男(かとうとしお)(刃物専門店・木屋(きや)八代当主)
- 1792(寛政4)年創業の刃物専門店・日本橋木屋会長(八代当主)。1926(大正15)年東京生まれ。1950年早稲田大学工学部応用金属科(現・材料工学科)卒業後、株式会社木屋入社。常務、専務、副社長を経て、1992年社長就任、2009年から取締役会長。2002年から2004年まで東京金物卸商共同組合理事長。現在、金属、刃物メーカーへの講演、指導を行ったり、刃物の博士的存在。金属をはじめ、鉄鋼、新素材関係の雑誌などに執筆。著書に『刃物あれこれ―金属学からみた切れ味の秘密』(アグネ技術センター)、『刃物のはなし』(さ・え・ら書房)、『包丁と砥石』(柴田書店)など。
転載元
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