今、を生ききる
公開日:2019年9月30日 09時10分
更新日:2019年9月30日 09時10分
大島 伸一(おおしま しんいち)
国立研究開発法人国立長寿医療研究センター 名誉総長
人生100年時代という言葉が飛び交うようになったのはいつごろからだろうか。男の平均寿命が80歳を超えたのが、2013年だからその頃からだろうか。
私は現役時代の最後の10年間を国立長寿医療研究センターに勤めていたので、高齢社会について学び、どんな社会になるのか、そのあり方について大きな関心を持ってきた。但し、取り組んできたのは、社会の持つ問題・課題とその解決であって、高齢化とともに明るい社会・人生という未来が到来するということを考えたことがない。ましてや自分が100歳まで生きるという将来像など想像したことがなく、戴いたテーマを前にして途惑っているというのが偽らざるところだ。
父親は53歳、祖父は55歳で死んだ。母親は90歳まで生きたが、弟は64歳で亡くなっており、男は短命で、今、自分が生きていることに不思議な思いを抱くことはあっても100歳まで生きる人生など考えたことも想像したこともない。私が育ったのはまだ人生50年と言われていた時代でもあり、自分の人生もそんなところだろうと考えるともなく信じていた。
従って、私は医師になった時に医師人生を30年と考えて設計した。最初の10年間を学ぶ時期、次の10年を身につけた技術を駆使する時期、そして最後の10年はそれまでに得たものを次の世代につなげる時期とした。
1970年に卒業し、名古屋の社会保険中京病院で医師人生を始めた。その後、97年に名古屋大学へ移るという大きな転機はあったが、30年間の計画を終えたあとは、その後の人生設計をしたことがない。あえて言えば、それからの人生はいわばなりゆきである。
六番目のナショナルセンターとして設立された国立長寿医療センター(現・国立長寿医療研究センター)に移ったのは2004年である。それまで高齢者医療に取り組んだことはなかったので、まったく想定していなかったことである。約10年間勤め、2014年に退職したが68歳になっていた。
父親は糖尿病、高血圧、最後には脳溢血(のういっけつ)で典型的な死への経過をたどったが、私も60歳を過ぎたころから、父親の持った疾患だけでなく、大腸と前立腺の2つのがん等、いずれも死につながる病気を経験している。幸いうまく生き延びてきているが、医学・科学の進歩、環境の向上に加え、医師であるということが、これまで生きてこられた理由ではないかと思っている。
「平均寿命が男性も80歳を超えたという時代に、長寿医療研究センターの総長が、70代ましてや60代で死ぬなどということがあっては、センターの信用に関わるワナー」などと妙な理屈をつけて、身体の手入れには気をつけてきたが、30年前、あるいは20年前に生まれていたら、この年まで生きてはいなかっただろうと思っている。
さて、100年時代をどう生きるか、答えは考えたことがない、考えるつもりもないのである。100歳を超えた人に話を聞くと、今が人生で一番幸せだと例外なしに言っているそうである。その心境になるためには、100歳まで生きなければならない。考えると素晴らしいようでもあり、恐ろしいことのようでもあるが、そうなりたいとか、そうなれればいいとかは考えない、考えたくない。夜、一合の晩酌が楽しみで、ああ今日も楽しく過ぎたと思えれば言うことはない。毎日、毎日がなりゆきである。やることはある。今のところはあり過ぎて困るぐらいだが、いつ途絶えても不思議ではないから、あわてないように、悔いはないように、覚悟はできている。
全く迷惑をかけずに、逝くわけにはゆかないから、そこはお許しを願うしかないが。
著者
- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 1945年生まれ。名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、同副院長、名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、同附属病院長を経て、2004年国立長寿医療センター総長、14年より名誉総長。名古屋大学名誉教授、日本福祉大学常任理事。
著書
「超高齢社会の医療のかたち、国のかたち」(グリーン・プレス)、「老後を生き抜く方法」(宝島社)、「長寿の国を診る」(風媒社)など